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【時事評論2021】

理想社会の再定義(3482文字)

2021-02-20
  理想社会というものを人はいつの時代も夢見てきた。そうした人々を理想主義者(Idealist)と呼ぶ。だがそれらの人々の描いた理想が人間世界や自然界の法則に全く沿わなかったために、多くの場合ことごとく失敗した。いみじくもカエサルは「始めたときは、それがどれほど善意から発したことであったとしても、時が経てば、そうではなくなる」と喝破した。近年でも中東に起きた「アラブの春」という革命の嵐は、当地に民主主義が芽生えることが期待されたが、どれ一つとして成功したものはないとされる。それは現実をどう変えていけばよいかという肝心の点を忘れ、理想を先頭に掲げたからである。すなわち、人間の頭脳が考え出した理想郷という想像の産物は、その描写がどのように人に心地よさをもたらしたとしても、非現実である限り失敗する

  江戸時代に、飢饉に苦しむ民を見て、自らも農民で苦しみを受けていながら、民の救済に生涯を奉げた人物がいる。言わずと知れた二宮尊徳である(20.10.19「二宮尊徳の偉業 」参照)筆者の最も尊敬する現実主義者である。彼が裕福な武家に育った剱持廣吉という後年に弟子になった男と交わしたとされる会話がある。「お前の村が貧乏なのは村人がお前から借りた借金のせいだ」/「いえ、村の貧乏は私一人だけのせいではありません。とても私一人では負いきれません」/「ではお前の村の金持ちのところに夜盗にでも行ってこい」/「いや泥棒せずとも他に方法はあるでしょう」。廣吉は無尽講(相互に金銭を融通し合う目的で組織されたもの)を提案したが、尊徳はそれが取り退き無尽(とりのきむじん:くじに当たって金を取った者は退会し、それ以後掛け金を払わないこと)となることを見抜いて駄目だと否定した。廣吉は別のアイデアを一週間も考え抜いたが、疲れ果ててしまった。尊徳はこれを見て役人に7両2分というカネを出させ、「しばらく遊んで来い」、と廣吉に言っている。廣吉は後日、「役所のカネで遊んだのは恐らく俺だけだろう」と述懐したという。そしてついに根負けして再び尊徳に妙案を聞きに行った。そのとき尊徳は廣吉に、「どうだ、村の困難をお前の借財として引き受ける覚悟があるか?」と問い詰めたという。この話は廣吉の『自叙伝』にあるものらしく、本当にあった会話だと思われる(出典:留岡幸助『二宮尊徳と剱持廣吉』1907年10月「警醒社」)。結局廣吉は尊徳の弟子となって村の困窮を救った。尊徳はそれをいたく褒めたそうだ。筆者は尊徳の現実主義をこの話に見て、彼の思想を絶賛することになった(2.15「ワクチン先進国イスラエルに観る現実主義」参照)。とてもユーモアが溢れており、人間の本性を知り尽くしていることがよく分かる。最も好きな逸話である。尊徳は少なくとも理想主義者ではない

  筆者もまた「人間本能論」という現実主義に立ったものの考え方から出発した。そして問題点を洗い出し、何をどう変えればどうなるかを検証してきた。それは人間の本性(本能から生じている)や自然界の摂理を最も重要なものとしたため、現代の理想主義に立つイデオロギー(民主主義・平等主義・人権主義・権利主義・主権主義・自由主義・自由主義経済・グローバリズム)をことごとく否定せざるを得なくなった。そしてゲーム理論(尊徳はこれを実に見事に使った)によって人間性を上手く制御できることを見出した(20.9.24「「ゲーム理論」とは何か? 」参照)。その実例は歴史の中に山ほど見つけることができるが、多くは指導者の邪心から出たものであったため、ほとんどが失敗の憂き目を見ている。だが尊徳のように、自己を顧みない思想から出たものは、実に見事な成果を生み出した徳川家康の270年間の安定した政治体制も、家康の単なる支配欲から出たものでは無いが故に、現実主義に立った過酷な面もあったにせよ、成功した一例として取り上げるのにやぶさかではない。それは民を豊かにし、平民文化を高いレベルにまで引き上げたことからも分かることである。そして江戸時代は「天下泰平」と言われもした

  理想社会というものを、理想主義者は次のように描いたと思われる。「人々は皆平等で、誰も気兼ねなく自由に自分の考えを披露でき、しかも生活は安定していて、社会全体も安定している。王様のような存在はなく、指導者も平民も同じ身分であり、何でも自由に意見を言い合える。仕事さえすれば飢えることもなく、資本家だけが利益を貪ることもない」というような理想主義者が思い描くものを想像してみた。これらは筆者の観点からすれば矛盾だらけであり、人間の本能からしても、社会のシステムからしても、自然界の摂理からしてもあり得ない話である(1.25「自然界の法則の学び方」参照)。現実には、人の世界はピラミッド構造を成すのが最も安定であり、過去の歴史も現代もこの構造から抜け出た実例はない。自由にモノを言い始めたら百家争鳴となり、議論は結論が出なくなり、至るところに対立が生まれる。現に国際社会では国家が主権を持つためにこのような対立状況になっている。身分制度が無くなった現代は最も不安定な状況になっており、未来社会では人格という物差しで身分を分けるであろう(階級制度は作らない)。その人格に応じて発言の重みが変わってくるため、誰もが同じ発言権を持っているわけではない。最後のところだけは未来社会でも同じことを目指す。つまりカネによる支配や特権を許さない。

  以上の説明から分かるように、筆者は超現実主義者である。個々の人間の感情を非常に軽く見る。確かに人間であれば、共感を呼ぶ感情の発露もたくさんあるだろうが、そのような個々の感情論よりも、地球システムや人間社会全体のシステムの安定の方が最も大切であり、そのためには人間が犠牲的になることも当然だと考えるのである。たとえば人口論で言えば、地球環境の保全のためには世界人口を20億人以下にしなければならないと考え、そのためには人口を合理的・道理的に減らす方策を考える。そこにおいては個々の個人や家庭の状況を省みることはない。ある意味で非情な政策が取られることになるだろう。これは理想社会からはかけ離れているように見えるが、結果として得られた社会は現実の理想社会となるだろう。そこで必要となるのは、理想社会の定義である。以下にかいつまんでその定義を模索してみよう。

  未来の理想社会は、①誰もが尊敬できる賢人が人間社会のリーダーとなる・②人間社会のルール・秩序は法と道義によって決まる・③人類全体を包括した単一組織・「地球連邦」が世界を支配する・④各国は自治国家となり、軍備を放棄するため、戦争はなくなる・⑤利益を求める競争は無くなり、人々は自分の目標に向かって人生を選択できる、というような要素を持つだろう。これらを含めて再定義するとすれば、1.人間集団としてのピラミッド構造・2.法治主義から道治主義への移行・3.戦争の消滅・4.競争の放棄、が定義として浮かび上がってくる。これを以下に簡単に説明しておく。

  1.人間集団としてのピラミッド構造:現在はいくつものピラミッド(国家)が存在し、その間で争いが絶えない。これを単一の人類全体のピラミッド構造(連邦制度)とすることで争いの回避をすることができる。そのトップを占めるのは支配的権威や暴力的集団ではなく、人々から選抜された叡智を持つ賢人となる。賢人は世界の安定を最大の目的として統治を行い、民がこれを評価できるシステムとなる。

  2.法治主義から道治主義への転換:法は全ての事象に対応して定められておらず、また解釈によって本来の精神が歪められてしまっている。これを道治主義に切り替えれば、全ての事象はそれに関係する人々の持つ常識・道理で判断することができ、万能の法となる。

  3.戦争ができないシステムの構築:戦争は人類の最大の災厄であり問題であった。これを回避できれば多くの不幸を免れることができる。1.の方法を取ることで、連邦が絶対権力となり、かつ戦争の原因となる武器を各国が放棄することで紛争・戦争を回避できることになる。

  4.競争の放棄:人間の最も醜悪な本能は競争本能である。これを制御することで、自分のための利益追及から出てくる競争は否定され、全体の利益追及からでてくる競争は是認されることになるだろう(20.10.5「人間本能の制御は可能か?」参照)。これもゲーム理論によって実現可能となるだろう。


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