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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2024】

飲酒リスクをどう考えるか?

2024-02-23
  20日の産経新聞1面の右下に「ビールロング缶1本で大腸がんリスク」という記事が載った。ノムは最近になって、アルコールはどんなに少量であっても身体には有害だということを日経サイエンスの記事で知ったが、いよいよ日本の新聞も飲酒には問題があることを認め始めたようだ。喫煙の問題も長い時間を掛けて論争してきた結果、医学界側の主張が通り、今ではタバコの箱には必ず注意書きが載るようになった。だがそのことを含めて、医学界も社会も、喫煙の効能を忘れており、それを無視したがために、社会的ストレスを増進させ、人間界全体がストレス増加による争いへと進んでいることをこれまで他項でも主張してきた(20.11.30「ストレス論」・20.12.6「ストレス論の医学的側面」・21.7.18「喫煙の効用」)。今回は飲酒についての問題でも同様のことが起こるだろうと予測して、ノムの見解を述べることにする。

  飲酒についても、以前から目の敵にされてきた面がある。自動車運転中などでの酩酊が事故を多発させたからである。そのため運転中に呼気アルコール検査が行われたりすることもあり、特にすごいのは、店で客が飲酒した場合、客が車で運転して帰ることを知っていた場合は、飲ませた店側も責任が問われるようになったことであった。商売が犯罪になり得ることが示されたのである。麻薬や盗品を販売すれば犯罪であることは誰でも理解できるが、酒という嗜好品を店で飲ませたら犯罪の可能性があるなどと考える人は少ないだろう。だが日本は極めて厳しく、世界でも類例がないと思われる法律を作ってしまった。幸いなことに未成年者飲酒禁止法にはその規定があるが、他には見当たらなかった。だがこれまでの事例からすると、店で飲酒した者が事故を起こした場合、店側も責任を問われるようである。

  それはさておき、厚生省は19日に初めて飲酒のリスクや健康への影響をまとめた初のガイドラインを発表した。外国の文献などを参考にしたと思われる。外国では、1滴であってもアルコールは健康に害を及ぼすとの見解が主流になりつつあるようだが、日本ではそこに曖昧さを残した。「現在研究中」という表現を用いたり、「データなし」とした部分も多い。だが「少しでも」という表現もあり、アルコールが何らかの健康影響があることを示唆している。酒の量ではなく、アルコール量を基準にしている。たとえば生活習慣病のリスクを高める1日当たりのアルコール量を男性では40g以上とし、女性が20g以上としている。参考に、20gは日本酒1合に相当するとしている。

  厚生省のこの飲酒指針は、日本の酒文化を全く無視したものであり、まして社会的影響をすら考慮していない。飽くまでも身体への直接的影響を表記したものに過ぎない。禁酒や減酒によって社会的にどういう影響がもたらされるかについては懸念すら示していない。米国ではかつて、禁酒法(1920ー1933)が施行されたことがあり、マフィアは撲滅されたが、結局人間にはアルコールが必要だとして、禁酒法は廃法となった。だが世界的に未成年に対しては飲酒を禁じており、それは未発達の脳への影響があるからだとしている。多くの国が18歳以上から飲酒可能になるが、ビールの国ドイツでは14歳から段階的にということになっている。面白いのは、ワイン国であり、水代わりにワインを飲むと言われていたフランスが、18歳以上にしているらしい。禁酒法があったアメリカでは21歳以上になっているらしい。日本では20歳以上であり、成年年齢が18歳に引き下げられた2022年4月以降も変わらず、飲酒に関する年齢制限は20歳のまま維持されている。

  つまり飲酒に関しては、取り締まりの都合もあることから、世界的に年齢制限だけは設けているが、飲酒量制限は設けていない。そのため過剰飲酒が問題になるのである。だが医学的に言うと、1滴のアルコールであっても健康影響が出る可能性が指摘されたことにより、飲酒の可否がこれから社会的に問題となる可能性が出てきた多くの酒造メーカーにとっては死活問題であり、愛飲家にとっても由々しき問題となるだろう。ノムはこうしたリスクを過大に警戒する風潮が広まることを最も危険なことだと懸念している。ノム自身は酒をこれまで飲む習慣は無かった。ただブドウを作っている手前、保存方法として自家醸造でワインを作ってきた。だが酒として飲んだことはなく、紫色の色素であるアントシアニンが目に良いという俗説を信じて、最近ミニグラスで一杯を時々飲んで消費している。そうしないと酒が溜まる一方だからだ。そのような場合の飲酒の是非を考えると、ノムとしてはたとえアルコールに害があるとしても、その他の効用を考えると、飲酒は絶対に禁じるべきものではないと考える

  イスラム諸国では酒は禁じられているが、国によってかなりばらつきがあり、面白いことにエジプトに旅行した際、駅にある警察で門衛と話したことが切っ掛けで事務室に招き入れられ、所長と話しが盛り上がり、同行者が酒を提供したところ、所長は喜んで金色の女神の小さい像をどういう分けか私にくれた。勿論酒は禁じられているはずだが、警察では酒盛りが行われたのかもしれない。イスラム国で禁酒が厳しく守られているのは、恐らく原理主義に基づくアフガニスタンやイエメンなどであろう。だが彼らは麻薬を用いて気分を高揚させているというから、酒よりはるかにタチが悪い。先日のニュースでは、イスラム過激派戦士が銃を片手に酒ビンを煽っている映像があった。

  「酒は百薬の長」として人間にもてはやされてきた歴史がある。それはアルコールが人の気分を明るくし、高揚させるからである。祭事には必ず酒が伴っており、時には奉納される人間は相談したり、打ち解けようとするのに、酒を用いてきた。もし酒が無かったら、殺伐とした世の中になるのではないかと危惧する。一方酒を禁じているイスラム諸国ではストレスからか争いが絶えない。こうした精神面・社会面での酒の効用はいくら強調してもしすぎるということはないだろう。酒は人間のコミュニケーションにおける潤滑剤の役割を果たしている。もしかしたら未来世界では大麻も同様な役割を持つかもしれない(20.11.5「大麻の是非」)人間は適当な量の薬物を、太古から嗜好品としても薬用としても用いてきたそうした経験知に基づく知恵を、医学という名の下で行った単純なリスク解析で葬り去るべきではない。もっと普遍的・俯瞰的視点から、飲酒・喫煙・薬物・嗜好品(茶・珈琲・チョコレート・コカコーラ)の功罪を論じるべきである。

(7.20起案・起筆・終筆・23掲載)


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