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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2023】

望郷の念(7.3追記)

2023-06-27
  人は誰でもその故郷に強い想いを抱くそれは恐らく本能的なものであり、人に共通した普遍的なものであると思われる。ノムは養子として3歳で故郷から離れたため、生まれ故郷というものへの執着もないし、愛着というものもそれほど強くない。「望郷の念」というものは、少なくとも記憶が残る5歳以降青年期までに過ごした場所に対する想いなのであろう。ノムの場合も3歳から40歳まで過ごした東京が故郷だと認識しており、未だに「東京人」との意識がある。地方に移ってから35年も経つというのに・・。息子も7歳頃まで東京だったので、もしかしたら望郷の念があるかもしれない。だが孫にはそうしたものは全くないだろう。そうした人の望郷の念を、NHKの番組から強く感じた。6月23日に再放送された「アナザーストーリー/戦後最大のヒーロー・力道山・知られざる真実」である。

  力道山の名を今の若い世代はもう知らない。だが戦後育ちの世代にとって、彼は日本の英雄・ヒーローであった。同じように美空ひばりがいる。さらに王貞治張本勲もいる。この4人は朝鮮半島出身であるが、日本は彼らを差別せず、日本の英雄として受け入れた。ノムも彼らが朝鮮出身だということは少年期から知っていたが、何の違和感も無かった。明らかに日本で育った日本人だったからである。だが三人にはそれぞれ、隠された故郷への想いがあったのだろう。番組では力道山について詳しく述べている。

  力道山は1924年11月14日、日本統治下にあった朝鮮の咸鏡南道洪原郡新豊里(シンプンリ:現在は北朝鮮)に生まれ、幼少期には朝鮮相撲のシムルをやったことがあり、それが縁で(後述)来日して相撲界に入った。相撲界では長崎県出身と紹介され、彼自身も朝鮮人であることを一切言わなかった。だが1950年9月頃、二所ノ関親方に「朝鮮籍の人間は横綱にはなれない」と言われ、その場で台所に行って包丁で髷を切り、相撲界を廃業したという。力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられており、師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。これが引退の引き金と考えるのが妥当であると考える人もいる。相撲界から引退した時、相撲界にスカウトした百田巳之吉の戸籍に長男として入籍。この時に日本国籍を取得した。出生名は金信洛であったが、百田光浩と名乗った。この頃、1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発している。もしかしたら力道山の激憤の裏には、自民族が自決の戦いを起こしたことへの思いがあったのかもしれない。

  その後、二所ノ関部屋の後援者新田新作が社長を務め、当時横浜市本牧に本社があった新田建設に資材部長として勤務。次男の光雄によれば「建築現場の監督をしていた」という。ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合。これを機にプロレスの世界に入り、日本とハワイで修行したのち、新田晋作と興行師永田貞夫の助力を得て「日本プロレス」を立ち上げる。1953年にテレビ放送が始まったことに注目し、柔道出身の木村政彦と組んで1954年2月19日に日本テレビで米国のシャープ兄弟と対決タッグマッチを催した。これが全国の街頭テレビで大喝采を受け、テレビの売り上げもうなぎ上りになったという。「日本人男子が米国の大男をなぎ倒す」というストーリーが日本国民に受けたのだ。力道山の繰り出す空手チョップで劣勢の木村を救うというのが決まった試合パターンであった。プロレスがショーであり、真剣勝負の格闘技ではないことを観衆は忘れ、敗戦で沈んだ気分が一気に湧いた。ノムも幼少の頃にこの興奮を味わった一人である。1963年5月に行われたザ・デストロイヤーとの戦いでは平均視聴率64%を記録したという。ノム(17歳)には記憶にはないが、多分見たと思う。

  こうして日本のスターに伸し上がった力道山だが、八百長試合や新田新作との主導権争い、木村政彦との確執、4億5000万円の借金、3人目の妻の家庭内内輪の暴露、等々、話題には事欠かない破天荒な人物であったという。だがデストロイヤーとの試合の半年後の1963年12月、赤坂の飲み屋で暴力団員に「足を踏んだ・踏まない」の口論の挙句、力道山が暴力を振るったため暴力団員が携えていたナイフで刺され、一旦は自宅で手当てしたものの、翌日急変し、山王病院での手術で回復したものの、術後腹膜炎で刺されてから1週間後にあっけなく死亡した。享年39であった。その死は日本だけでなく、韓国・北朝鮮でも大々的に伝えられ、追悼式が行われた。

  力道山はあくまでも表向きは日本人として振る舞い、朝鮮出身であることを否定していたが、1959年に北朝鮮帰国事業が開催されたことが転機になり、北朝鮮に力道山の情報が伝わることになったという。また力道山自身には北朝鮮に妻子もいたことが分かった。日本に渡る前に結婚していたのである。娘の名はキム・ヨンスクだという。大坂で鉄工所を経営するキム・ヨンピルは力道山と親しく、その息子のキム・ビョンスはそれを証言している。力道山はヨンスクから初めて民族心の大切さをしみじみと諭されたらしい。ヨンピルの配慮で娘のヨンスクは新潟港にやってきた。父娘は船上で再開を果たしたという。

  力道山は1963年に韓国に凱旋帰国している。当時はまだ日本と韓国の間には国交が無かったが、力道山が果たした国交正常化への貢献は素晴らしいものであったという。力道山は1週間の間、連日韓国要人と接触したのである。韓国でも当然の若者(現在の年配者)は力道山の事を知っており、誇りに思っていると言う。この時に力道山は南北境界線に足を運んだ。そして涙を流しながら車の中からお兄さんの名を呼んだという。

  だが日本では『力道山物語・怒涛の男』と題された番組では九州・大村市生まれ(実際は少年時代から)と紹介されている。驚くことに、戦前の取り組み表には出身は「朝鮮」となっており、本名もそのまま記されていた。力道山は野球選手の張本と同郷のよしみもあり親友ととなり、彼とは飲み屋で2人切りでラジオ短波で北朝鮮放送の音楽を聞いたという。その際には涙を流していたと張本は語る。朝鮮でも力道山はプロレスで世界チャンピオンとなったという意味での英雄であり、『俺は朝鮮人だ』を始めとする伝記や漫画本も多く出版されている。

  こうした話を聞くと、人間の故郷に対する想いというものは尋常ではないことが分かる。すなわち、幼少時や青年期の体験は一生記憶に刻まれ、それが時々頭をもたげて人を望郷の念に追いやるのである。それは涙せずにはいられない心の衝動となり、人を故郷がまるで理想郷のように思わせるのである。多くの人が他国に仕事上の都合や難民などとして渡ったとしても故国に戻ろうとするのは、こうした心の思いがあるからである。そして多くの場合、その思いは1世だけに止まらず、3世位まで続く。つまり3世代を経ないと、人はアイデンティティの変更を行なえないということが分かる。ノムがノム思想で、3世代の継続を重要視するのはこうした人間の本能的心的作用を考慮するからである。

  民族的に異なってはいても、人は3世代異国に住めば、異国人として定着し、その国の人間だと云っても問題は無い。たとえば米国の黒人は既に数百年の在米を記録している者もおり、米国人としての意識が定着している。未だに人種問題が起こるが、それは先住民と誤解している白人側の認識が間違っているからである。プアーホワイトと称される白人が誕生したのはここ数十年のことであり、まだ3世代を経ていないため、白人の中には非白人に仕事を奪われたという被害者意識を持つ者が多い。この問題も3世代を経ればそれが自然なことだと認識され、人種差別問題は解消していることであろう。日本での朝鮮人の存在も同様であり、既に上記した有名スターらは1世から2世で名を上げ、3世では日本人として定着しており、差別などは受けていない。

  後日記となるが、韓国で成功したヒュンダイ(現在は分裂して現代グループとなっている)の創業者・鄭周永は北朝鮮に近い場所の出身のようだ。正確に言えば、大日本帝国朝鮮の江原道(カンウォンド)通川郡松田面峨山里に誕生した。現在の韓国の北東部であり、カンウォンドは38度線で南北に分断されている。金剛山はカンウォンドの北朝鮮側にある。そのためだろうと思われるが、金剛山観光開発にも手を出し、失敗してヒュンダイ全体に打撃を与え、1998年の通貨危機もあって分裂の憂き目を見た。だがそれでも初代鄭周永は2000年6月に北朝鮮訪問を訪問しており、その後体調を崩してソウルの病院に長期入院し、2001年3月21日に肺炎による急性呼吸不全のため死去している。周永の5男の鄭夢憲は同じ財閥グループの玄貞恩と結婚し、2003年に夫の鄭夢憲が飛び降り自殺したため玄がグループの3代目を引き継いだ。その玄は報道では北朝鮮生まれとされており、このほど2023年6月30日に北朝鮮の金剛山を訪問したいという希望を韓国政府に提出した。だが北朝鮮側が7月1日になってこれを拒否したという。国家の体制が異なっても、3代目になっても北への望郷の思いが強いことが分かったが、故郷の北朝鮮の無慈悲な対応が玄にどのような感情をもたらしたかを知りたいものである。

  未来世界を考えた場合、人が移住することは避けられないことではあっても、国家をまたいで移住することは、短期的にみて不安定を社会に生み出すことから、ノムとしては国家間の人の往来ですら制限すべきであり、ましてや移住は許されるべきことではないと考える。人の望郷の念は極めて強く、それがもたらす社会での異質感は3世代経ないと消えない。当人がそうした違和感を持ち続ける限り、社会的融和など夢のまた夢となってしまう。周りがいくら差別をしないと云っても、本人が意識を変えられない限り、社会的平等のための制度にも有効性からして限界がある。それは大いなる努力と予算の無駄となりかねない。国家間移住を認めないことでこれらの問題は3世代で雲散霧消することだろう。

(6.24起案・起筆・6.27継筆・終筆・掲載)


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