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【歴史評論】

富雄丸山古墳で最大級の発見

2023-02-01
  古都奈良でまた新たな発見があった。国内最大の富雄丸円墳から、類例のない造形の「盾形銅鏡」と最大の長さの「蛇行剣」が見つかったのである。これまでの日本の技術史に新たな視点が加わるかもしれない。

  この円墳は大和政権時代の前方後円墳とは異なる。そのことからヤマト政権誕生の直前か初期の頃のものと思われる。古墳時代と呼ばれる時代は3~7世紀頃とされ、畿内(奈良周辺)から始まっているが、前期の3~4世紀頃には円墳も多かった今回発見のあった円墳は帆立て貝式円墳であり、四角い造り出し部分がある。円墳は墳頂部に主人公が埋葬されるのが普通であり、通常は副葬品などもそこに置かれる。だが今回の富雄丸山古墳では、作り出しの部分にあると思われる棺の外側上部に副葬品があったようであり、1月26日の報道では棺については詳しく触れていない。その中に人骨があったのかについても触れていない。学者は恐らく墳頂部に葬られた主人の高位の部下であろうと考えている。

  墳頂部の調査は既に1972(S47)年に奈良県教育委員会が行っており、粘土で作られた埋葬施設が見つかっているが、副葬品についてはウィキペディアでも詳しく述べられているが、やはり棺の中に人骨があったのかどうかについては触れられていない。この人物については、円墳であることからヤマト政権とは距離を置く豪族と考える学者もおり、神武天皇の大和入りを阻止しようとしたと云われる土豪・長髄彦(ながすわひこ)ではないか、とも考えられている。そして今回発見された副葬品もこの人物のものである可能性が高い。造り出し部分から発見された棺の人物は、あくまでもこの副葬品を守る立場にあったのではないだろうか。何しろ日本で発見された今回の副葬品はこれまでに類例のないものであったことから、部下に当たる人物のものとは思えないからである。

  いよいよ副葬品のことに触れよう。まず驚かされるのは、長大な剣である。2mを超える長さを持つ剣の例は後代の鹿島神宮の他にない。三種の神器の一つとされる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:草薙剣(くさなぎのつるぎ))は入水した安徳天皇とともに瀬戸の海に沈んで失われたが、古墳時代前の造りとされるが直刀であり、かつ長さも短い。石上神宮の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は直刀でおよそ85cmとされる。鹿島神宮に伝わる同じ名の韴霊剣 (ふつのみたまのつるぎ)は、柄と鞘を含めた全長は2.71m、刃長は2.24mであるとされる。制作年代は定かでないが、刀身は奈良時代から平安時代のものと見られている。

  ヤマト政権は三輪山麓の纒向(まきむく)遺跡に成立したと言われており、おおよそ2~3世紀頃らしい。上記の剣は古代の刀剣の歴史を数百年遡ったということになるだろう。だが面白いことに、この刀は直刀でも曲刀でもなく、「蛇行剣」と呼ばれるものであった。その柄・鞘の痕跡から、装具を含めた全長は2.67mであると想像されるという。国産の蛇行剣は85の事例があるらしいが、今回のものは最大で最古とされた。古墳で発見されたものでこれまで最長である広島市の中小田第2号墓の全長1.15mを大きく上回った。蛇行剣の形は悪魔祓いのためであったと考えられているようだ。実用的な形でない剣が造られたということは、この頃の日本人が既に霊的な存在を崇めていたということを類推させる。

  次に日本で初めての造形である盾形青銅鏡が発見されたことは驚くべきことだろう。報道には無かったが、中国や朝鮮にもない全く新しい造形であるらしい。それは異質な素材を合わせたものらしく、同じ青銅製であるとはいえ、高い技術で盾と鏡を融合させた最高傑作であると称賛されている。しかもこれまでは銅鏡は円形と決まっていたものが、四角い盾の中の2ヵ所に丸くはめ込まれた形になっている。その大きさも最大であるという。いずれも国産とみられ、古墳時代前期の金属器としては国宝級と評価される。ノムはこの造形に古代からの日本人の独創性を見た気がする。単なる物まねではない、先進性を感じる。

  学者らが最大の課題としているのは、この墓の主人が誰であるか、またなぜこの地に造られたのか、ということであるらしい。1説として上記に上げた人物が取りざたされているが、地理的にはヤマト王権成立過程が地理的にも証明されるかもしれない。すなわち奈良から大阪方面に移動していった可能性もあるという。王権中枢が奈良北部から大阪・河内へ移っていく過程が覗えるという。

  邪馬台国の所在地については「近畿説」と「九州説」があり、長年論争が続けられてきたが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州説を採用すれば北部九州一帯の地域連合ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。各地で豪族が興り、闘争を繰り広げたことは想像に難くない。邪馬台国という存在自体が全国を統一した政権ではないとノムは考える。この論争はまだまだ続くだろうと思われるが、高い技術が畿内にあったということは、最大の権力が畿内に最初に誕生したという考え方が最も受け入れやすいものであろうと思われる。


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