本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

男女共同参画

2021-09-07
  「男女共同参画」とは、日本人なら誰でも知っている言葉であろうが、世界では同じような言葉はあっても別の言葉が使われているであろう。飽くまでもこれは日本政府が打ち出した「男女平等」というイデオロギーに基づいた政策名だからである。細かいことを言えば、1978(S53)年頃から日本が取り組み始めた「国内行動計画」の一環である「婦人問題推進本部」が出した白書のような報告書から始まり、1999(H11)年6月23日公布・施行の男女共同参画社会基本法」を基本とした政策として位置付けられた。まだ議論の途上にあるものとして「選択的夫婦別姓制度」・「クオーター制(政治家の男女比)」がある(20.12.20「夫婦別姓の是非」)。男社会という既成概念を打ち砕くために、日本も長い時間を掛けて変革しようとしている(4.1「男と女に能力差はあるのか?」)。だがこうした変革にはおよそ一世代~二世代を必要とすることがよく分かる。

  ノムは急進的に進むこれらの制度改革には反対の立場を取っている。考え方は正しい方向に向かっているが、それを現代に一律的に、しかも男女の違いを考えずに適用しようとしていることに矛盾を感じるからである(20.12.23「男女は平等か?」)。もしこの男女共同参画に「男女が本来持つ役割に応じて」という考え方が入っているならば、筆者も賛成できることになる。これらは本来、法律で一律に縛るものではなく、生活の仕方が時代に応じて変化する中で、自然と常識が変わっていくことで解決されていくものだからである。事実、男女共同参画という法律に則ってではなく、既に息子夫婦は現実的に体現しており、どちらかと言えば息子の嫁(この言葉はあまり使いたくないが適当な名詞がない)の方が仕事が忙しいため、ホームワークになった息子の方が家で洗濯や育児をしている。それは仕方なくそうしているのかもしれないが、生活実態に合わせて適応していると言った方が良いようである。筆者も定年退職してからは、自分のことは自分でやるようにし、食後の食器洗いなどもするが、妻の仕事を全て取り上げよう、代替しようとは思わない。適材適所という考え方からどちらがやった方が効率的か、という観点からやっているに過ぎない(20.10.19「効率をどう考えるべきか? 」)

  男社会から男女協働社会に変革が起きる際、最も障害となるのは男の「面子」の問題である。これは、男は働いて家族の糧を得てくるのが役割であり、飽くまでも家族の代表であり、長である、とする考え方である。ついでに言えば、女は男の性欲処理を合法的に手伝い、子を産んで育て、家事をするのが役割だと考える男が多い。その典型はユダヤ教やイスラム教、そして多分ヒンドゥー教に表れている。キリスト教では平等的で、「夫は妻にその分を果たし、妻も同様に夫にその分を果たすべきである」・「互いに拒んではならない」(コリントⅠ:7:3-6)と使徒パウロは説いている。ここで大切なのは、「分」を説いていることにある。男女それぞれに役割があるということを強調しているのである(7.28「役割分担の重要性 」)。

  これを行き過ぎて固定的に解釈すると、男が女を支配するという思想になる。つまり男は自由に女を操ることができるという考え方になる。逆の男女共同参画も極端に解釈すると、男も女も平等で同じなのだから、政治家は男女同じ数にしなければならない、ということになる。現代の大きな問題はそこにある。少しでも女に不利な発言をすると、たちまち「男女平等」理念に反した旧態以前とした考え方であると糾弾される。森喜朗オリンピック組織委員長が「女が参加すると議論が長くなる」と事実を述べただけで、会長を退任せざるを得なくなるバッシングが起こった(7.30「言葉狩りへの対応 」)。代わりにその座に座ったのは橋本聖子という女性であった。こうして男が本当のことを言う度にイデオロギーの嵐が吹きまくり、要職が男から女に切り替えられていく。

  女が本当のことを言うことも稀にある。自民党の杉田水脈(みお)衆院議員が「女性はいくらでも嘘をつく」という旨の発言をした。女が認めた女の事実であり、それですら国会で問題とされた(8.27「女の功名心 」)。なぜ事実を言ってはいけないのか、というと、それは現代のイデオロギーである「男女平等」から出てくる、「男と女は同じでなければならない」、という誤った認識があるからである。これは逆に、憲法の保証する「言論の自由」に反する糾弾であり、そのことをメディアは問題にしない(20.8.6「報道の自由と忖度・配慮 」)。メディアは大騒ぎを好むからである。全うな議論などメディアには存在しない。憲法学者もこの「言葉狩り」を真剣に批判したりはしない(7.30「言葉狩りへの対応 」)。憲法学者の多くが東大派閥の憲法擁護派であり、左翼志向のリベラリズムに埋没しているからである。

  アメリカでもこの傾向があり、政治家の数における女性の割合を非常に気にする。トランプはそうではなかったが、オバマ・バイデンの両者は民主党であるため、それを実践した。2021年現在は女性の連邦議員割合は28%であり、上下両院議長は女性であり、ヒラリー・クリントンは女性初の大統領になる可能性が大きかった。現在はカマラ・ハリスが女性副大統領として活躍している。筆者が問題としたいのは、バイデン大統領が女性に媚びて、国家情報省の長官に2代続けて女性を起用した。これは歴代の男性長官を女性に替えたという画期的なものであった。現在のアヴリル・ヘインズはバイデン時代に入ってからこの要職(7代目)を務めているが、筆者はアフガン情報が彼女によって間違った認識としてバイデンに伝えられ、それが今回のアフガン撤退における不祥事に繋がったと考えている。すなわち、女性は思い込みが激しく、統計に囚われる傾向があり、それが情報を歪めたと思うからである。情報関係は直観を働かせることのできる男の方が適職である。それは人類の初期から狩りを男が担ってきたという数百万年の歴史があるからである。

  クオーター制というものは法律で政治家の男女比を規定しようという合理性のない悪法であり、男女の役割分担・適材適所を無視したものである(4.1「日本の女性登用率は世界120位・これは正常か? 」)。橋本聖子オリンピック・パラリンピック組織委員長は、女性の持つ調整力を発揮して立派にその役割を成し遂げた。その演説も男にありがちな役人的なものではなく、真摯で心に訴えるものであった(バッハ会長の独りよがりで自画自賛の演説と対照的)。女性がこうした役割に就くことは大いに称賛したいだが軍事と情報に関するトップには男を据えることの方が合理的である。女性議員の中には、人類全体や世界の現実を俯瞰して政策を考えることのできる人が少ない。女性の権利擁護・拡大に血道をあげる議員がほとんどである。だが安倍晋三元首相が高市早苗議員を次期総裁選候補に推したということは、高市には俯瞰的視点があると見込んだのであろう。問題はこれから戦争を予期しなければならないことから、女性で良いかという懸念が残ることである。だが女性でも、議員は戦闘に加わるわけではないことから、戦時宰相を務めることができるかもしれないという期待は持っている(鉄の宰相「マーガレット・サッチャー」の事例)。

  もう一つの問題を取り上げておこう。それは女性の社会進出が当たり前になり、職場における男女比が平衡に達した時の状況を今から想定しておくことが大切であるが、そうした状況になった時、女性が果たして真摯に議員の役割を果たすかどうかは極めて怪しいことにある。最近の事件から拾えば、河合夫妻議員が共謀して収賄をしたという事実や、上記に述べたように女性は平気で嘘をつく、という事実を考えると、女性も男性と同じように議員職に就くと同時に腐敗する恐れは極めて強い。人間である限り、その点で男女の違いはないと思われる。だが未来世界では人格点を基に議員立候補資格が与えられるので、男女に関係なく立志伝的人物が賢人となり、議員となるため、男女の別を考える必要は無くなるであろう(20.8.30「未来世界における人格点制度 」)

  ノム思想ではこの問題に対してどう考えるのであろうか(8.22「人間界の原理 」)。ノム思想には「役割分担」・「分」の考え方がある一方、 「適材適所」の考え方もあり、「状況理論」からしてその状況に最適な選択をするのが最善であるという考え方があり、政治体制にしても男女の比にしても固定的な考え方はない(1.18「状況理論」・7.28「役割分担の重要性 」)。そのため、未来世界ではほぼ完璧な「男女協働」が実現されていると考える。その意味でノムは「男女共同参画」という言葉に象徴されるものには反対する立場をとる。そして現代の状況を考える時、まだ戦争などが無くなっていない時代に、戦争や情報に関する政治機構のトップに女性を起用するということは極めて危険な賭けであると考える(現代では男も女性化していることから、大した違いはないかもしれない)。一方、戦争が無くなり、競争というものが原則的に否定される未来世界では、男性が主導権を握る社会的根拠は無くなり、あとは男女の性差に基づく性欲の違いや行動の違いだけが残る。その社会では完全に男女協働社会が実現されていると思うのである。


TOPへ戻る