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【時事評論2021】

イスラムは邪教集団か?

2021-09-03
  イスラム教はムハンマド(?570-632/名門商人の一族として誕生。誕生前に父を亡くし、6歳で孤児となったという。25歳で40歳の富裕な寡婦と結婚)を教組とする中東の宗教であり、キリスト教に倣ってムハンマドは大天使ジブリール(キリスト教のガブリエル)から啓示を受けたとして預言者を名乗り(610:40歳)、メッカで迫害されたために一族もろともメディナに拠点を移した(622)。後に彼の啓示などを基に聖典であるコーランが編纂された。アッラーを崇拝する一神教である。だが彼は元々商人であり、15歳年上の富裕な寡婦と結婚して財をなし、メディナで蓄えた武力によってメッカを占領し、その後も武力で勢力範囲を拡大するとともにイスラム教を広めた。彼の唱えた神の命令(啓示)には「六信五行」があり、よく知られているものに偶像崇拝禁止・女は肌を見せてはならない(ブルカ等着用)・ラマダン月の断食・1日5回の拝礼・豚肉の食事の禁止がある。コーラン以外にも「ハディース(預言者ムハンマドの言動録)」があり、いわば生活の掟集となっている。信者はこれを守ることで天国に入り、守らないと地獄に落ちるとする。ユダヤ教がヤーウェと呼ばれる神からアブラハムに与えられた掟を基軸としているのと似ており、キリスト教が「愛」を説く極めて精神的なものとは全く正反対となっている。キリスト教には神からの啓示はなく、イエス・キリストの言行録や弟子の書いた手紙が聖典となっており、ユダヤ教からの流れを継承しているため、旧約聖書と新約聖書の両方を聖典としている。

  その意味でイスラム教はキリスト教世界からみると当時は身内だけの新興宗教であった(当時のキリスト教徒は100万人程度と推定されている)。だがその教義には致命的な違いがあり、イエス・キリストを神の子だとするキリスト教に対して、これを否定し、イエスは預言者の一人だとするイスラム教は相容れない宗教となった武力を背景にしたイスラム教は拡大を続け、既に一大勢力となっていたキリスト教とヨーロッパで激突する(711-15世紀末)。一時スペインを席巻するが、他のキリスト教国のレコンキスタ(再征服)運動により奪還される。だがイスラム教はアジアにも広がり、インドネシアを筆頭に西アジア・北アフリカ・中央アジア・南アジア・東南アジアにムスリム(イスラム教徒)が多く、イスラム教国を自認する国家も多い。2019年時点で信徒は世界に18億人とされ、形骸化したキリスト教の信徒数23億人(単なる分類)には及ばないが、その実質的力は遥かにキリスト教を凌駕していると思われる。だが初代ムハンマドの後継者を巡り争いが生じ、カリフの地位を持つものを後継者とする宗派はシーア派、それを認めない派はスンニ派と呼ばれる。イスラム教徒はムスリムと呼ばれているが、この場合は宗派は関係ない。著名なムスリム同胞団はスンニ派である。  

  アルカイダ(アル=カーイダ・アラビア語: القاعدة‎、翻字: al-qāʿidah、英語: Al-Qaeda)は、イスラム主義を掲げるスンナ派ムスリムを主体とした国際テロ組織であるが1つの組織ではない。中国語では「基地組織」と訳された。日本語ではアルカイダと書かれることも多いため、本項ではアルカイダと称する。ソ連・アフガン戦争中の1988年、ソ連軍への抵抗運動に参加していたウサーマ・ビン・ラーディンとその同志らによって結成された。2001年のアメリカ同時多発テロの報復を受けたあと、アルカイダの指導部は孤立した。その結果、アルカイダの指導権は分散化され、組織は地域化されて幾つかのアルカイダのグループに分かれた。2001年10月のインタビューにビン・ラディン自身が「私たちは預言者ムハンマドをリーダーとする1つのイスラーム国家の子供たちであり、私たちの主はただ1人、預言者もただ1人、キブラもただ1つ、国家もただ1つなのです……真の信者たちはみな兄弟です。ですから、状況は西洋人が思い描いているような、(アルカイダなど)特定の名前を持つ組織が存在するということではないのです。その特定の名称(アルカイダ)はとても古いもので、意図せずして生まれたものです。兄弟であるアブ・ウバイダ・アル=バンシリは、悪質かつ傲慢で残忍で恐ろしいソビエト帝国と戦うため若者たちを訓練するための軍事基地を作りました。そしてその場所は訓練「基地」(アルカイダ)と呼ばれるようになりました。そのようにしてこの名称は生まれ、成立したのです。私たちは(イスラム)国家から独立した存在ではありません。私たちは1つの国家の子供たちであり、切り離せない一部なのです。そして極東から、フィリピン・インドネシア・マレーシア・インド・パキスタン・モーリタニアにまで広がる示威運動とも(切り離すことができない)……したがって、私たちが論じているのはこの国家における道徳なのです」と語っている。2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降についてはビン=ラディンの指揮によるものではなく、地域ごとに自発的に集まった人々によってアルカイダの名の下に勝手にテロが行われている。言ってみれば「イスラム宗教主義運動」である。イスラム主義過激派運動は、イスラム復興とイラン革命後のイスラム運動の台頭の時期に進展した。2011年にビンラディンの自宅事務所を襲撃して押収した文書によると、2002年時点で中核となる構成員は170人だった。2009年の時点で活動中の指揮官は200~300人に膨れ上がっていた。アルカイダは国際イスラム救援機構(IIRO)とイスラム世界同盟(MWL)という2つの慈善団体を活用した。サウジアラビア王族・カタール王族の支援があったとされる。

  ビン・ラディンの親しい友人であるモハメッド・ジャマル・ハリファの言葉では「イスラム教は他の宗教とは異なります。それは生き方です。私たち(ハリファとビンラディン)は、私たちがどのように食べ、誰と結婚し、どのように話すかについてイスラム教がどうしなければならないと言っているかを理解しようとしてきました。私たちはサイイド・クトゥブを読みました。彼は私たちの世代に最も影響を与えた人物です」と語っている。エジプトの作家・思想家・ムスリム同胞団の理論的指導者のサイイド・クトゥブの著作がアルカーイダの組織に影響を与えたと言う。1950年代から1960年代、クトゥブはシャリーア法が欠如しているイスラム世界はもはやイスラム教徒ではなく、ジャヒリヤと言うイスラム以前の無知に戻ったと説いた。イスラム教を復活するために、クトゥブは「真のイスラム国家」を確立しシャリーアを実装し、イスラム教徒の世界から非イスラム教徒の影響を取り除くために、正しいイスラム教徒の先駆者が必要であると主張した。イスラム過激派というものが誕生したのは、ソ連が10年間もアフガンに介入したことが原因のようである。以下にその要点を時系列に並べてみた。

  1979年12月から1989年2月まで続いたソ連・アフガン戦争 ・アラブ諸国から多数の若者がアフガニスタンを訪れ、アラブ人のムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)としてソ連に対する「ジハード(聖戦)」に参加・ 1990年にイラク(フセイン独裁)がクウェートに侵攻・1991年の湾岸戦争(米国主導の多国籍軍)・2001年の米同時多発テロと米によるアフガン攻撃・2001年タリバン政権崩壊・2003年のイラク戦争(フセイン旧政権はスンニ派・新政権側はシーア派)・2005年にイラク総選挙(シーア派圧勝)・ 2006年にイラク西部のファルージャという町で、ISは最初の一歩を踏み出した(スンニ派)・2010年チュニジアで「アラブの春」革命・2011年エジプト・リビア政権崩壊・2011年5月2日 ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害・シリアで反アサド運動から内戦・ISがシリアで活動・米軍がイラクから完全撤退・2014年ISがイラクのモスルを制圧・2015年パリ同時多発テロ・イエメン内戦・シャルリー・エブド襲撃事件、等々である。以後も闘争は全世界で展開され、留まるところを知らない。

  こうした流れがどこから生じたかと言えば、①ソ連とアメリカの介入・②武器商人の暗躍・③イスラム教の「ジハード(聖戦)思想」・④貧困、があるだろう。そしてもしイスラム教に「ジハード思想」が無ければ、これほど世界に紛争が広がることは無かったと思われる。すなわち、占領・戦争を盾に布教を図った教組ムハンマドの思想や考え方、そして手法がその根源となっていることが判る。他の世界の宗教を見ても、教組が戦争をした例というのはほとんど皆無である。せいぜいオウム真理教があるくらいだろう。だがムハンマドが残したコーランのほとんどは生活上の規範であり、ジハードを説いているのはほんのわずかでしかないと筆者は思っている。歴史的にもキリスト教国を侵略したことはあるが、長い共存を図ってきたということも一面の事実である。要は過激派はその一部だけを切り取って都合よく利用しているという面もある。

  だがイスラム教が世界を不安定にしている現実と、イスラム教の成り立ちを考えると、これほど宗教の中で邪教に相当するものはないと言える。筆者としてはイスラム教の全てを邪教扱いにしたくはないが、少なくとも闘争に都合よく利用している過激派集団があることは確かであり、それに対してイスラム世界の中に反過激派集団が無いと言うことが最大の疑問となっている。なぜイスラム指導者の中に過激派を批判し、排除しようという動きがないのか、それは結局イスラム教自体が邪教集団だからではないのか、という思いをしてしまうのである。イスラム教徒は一般に温和であるが、世界にあってその地に馴染もうとはしない。飽くまでもイスラムの習慣や掟を守ろうとする。それがその地の文化と衝突した場合、闘争に発展するのは火を見るよりも明らかである。そうしたことから考えると、やはりイスラム教は邪教であり、過激派は狂信集団であると言えよう。


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