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【時事評論2021】

太平洋戦争は避けられたか?

2021-08-16
  8月12日にNHKが放映した「昭和の選択」で『戦争を回避せよ!~近衛文麿・日米交渉の挫折~』の番組を観た。これをまとめることは重要なことだと考えたが、終戦記念日直前であったため、これを開戦記念日である12月8日直前に振り向けた方が適切ではないかと思った。だが8月15日付産経新聞に載せられた論説委員長の乾正人の論説を読んで、その無責任な文言と趣旨に腹が立ったこともあり、今回「太平洋戦争は避けられたか?」・「太平洋戦争は失敗だったか?」という2つのテーマで書くことにした。

  主人公の近衛文麿(1891-1945)は名前から分かるように、最も有名な貴族出身(侯爵)の議員であり、総理大臣を3度も務めた希代の国民に人気の宰相であった。元々党派出身でも財界出身でもなかったことから、彼は大衆に受け入れられることでその政治的地位を確立した。貴族でありながら庶民的な親しみを抱かせる人柄であったが、日本が大きな岐路に立っていた1900年代前半に、日本が太平洋戦争に突き進む切っ掛けを作ったとも言える政治家である。本項ではそもそも太平洋戦争が道義的に許されるものであったか、それは当時の政治情勢の中で避けられるものであったか、を主要な視点として纏めてみたい。

  ノムの結論から言えば、歴史の長期的視点からすれば日本が起こした太平洋戦争(大東亜戦争)には大義があったと観るが、短期的視点では間違った戦争であったとも言える。その見解を以下の論の中で説明してみたい。

  長期的視点からこの戦争を位置付けると、西欧の白人優越主義・植民地主義によって、西欧は大航海時代以来、世界に勇躍した。文明の遅れたアジア・アフリカなど世界の至るところに植民地を獲得し、利益をむさぼっていた。日本に対してもそれを企図したが、日本の内情をある程度知っていたヨーロッパは武力では難しいと見て英国がまず中国に矛先を向けてアヘン戦争(1840ー1842)を起こした。アメリカは一歩遅れて日本に来たが、やはり武力では難しいと見て商業支配を目論み、開国を迫った(1853)。西欧のそのような意図を一早く悟って独立の気炎を上げたのが日本であったが、開国論(幕府)と鎖国論(攘夷論)が衝突し、内乱が起きた。当時攘夷論に立っていた薩摩は薩英戦争に敗れ、長州も下関戦争に敗れた。その後攘夷論から尊王論に発展させ、天皇の下で新しい政治を始めようとする開国論に変更した薩摩・長州・土佐の急進派によるクーデターが起こったのである。だが他国と違い、徳川幕府(徳川慶喜)は争わずして大政奉還・王政復古を唱えて政治を天皇に返上した。だがクーデター派の勢いは止まらず、未だ禁裏を守護していた幕府軍を力で排除しようと、藩閥が内乱を押し進めたため、幕府軍と藩閥群(薩摩と長州)のあいだで戦争(1864禁門の乱・1868-1869戊辰戦争)が起きた。だがこれも他国と全く異なる形で集結し、首都である江戸は合議で無血開城され、新政府が藩閥によって形成された。天皇も和服から洋服に変えて(1873)近代化を推進した。だが薩摩は考え方の違いから政府要人がヨーロッパ視察を行っている間に再度クーデター(1873政変)を起こし、西南戦争(1877)で敗れた。この時薩摩を率いた西郷隆盛も戦争は避けたかったが、若い下級藩士らの勢い(1873徴兵令・1876廃刀令で武士の誇りを傷つけられた武士を含む)を止められなかったと言われている。

  開国止むを得ずという結論に達して明治維新を成し遂げて富国強兵政策を採ったのは、西欧に支配されないため、アジアでの盟主となるためであった。すなわち日本自身を守るためという大義が最初からあったし、その気概をアジアにも広めたいという構想があった。日清戦争(1894-1895)・日露戦争(1904ー1905)はロシアの南下政策に対抗するためという大義があったし、日中戦争にも部分的にその大義があったと観ることができる。だが西欧は日清戦争・日露戦争に勝利した日本という存在に脅威を感じ始めていた。1907年にアメリカが「日本移民制限法」を成立させたのはそのためであり、この頃から日米の感情に食い違いが生まれたと言われる。そこでアメリカは共産主義を掲げる毛沢東の一派に対抗していた蒋介石の国民党を支持して援助をし、中国に進出した日本の対抗勢力にしようと目論んだ。ヨーロッパはかつてアヘン戦争などで中国に利権を持っていたが、アメリカは遅れて中国に利権を獲得するチャンスを窺っていた。そのためには日本の脅威を排除しなければならなかった。だがアメリカには孤立主義という外国への不干渉主義を採っていた。

  日本の側からの視点では、幸いなことに明治維新が成功したことで西欧の植民地化は避けられたものの、ロシアが既に朝鮮半島に進出していたことから、ロシアに狙われる危機感を持っていた。朝鮮半島の内部のごたごたから不安定になると、日本は在朝鮮日本人の保護を理由に軍を派遣し、日露戦争に勝利した結果、朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国はさまざまな権利を日本に委譲することとなり、さらには東学党派の一進会の要望により日本の保護国となり、1910年に併合された。西欧流の植民地とは全く異なり、日本は朝鮮に対して国民と同等の権利を与え、教育をし、莫大なインフラ整備と殖産興業を行った。だが西欧は昇竜の勢いである日本にさらに警戒感を強めた。だがアジアからは多くの革命家が日本に学びに来ており、日本は各国が西欧列強から独立することを勧めた。中国からは孫文(滞日:1894ー1902頃)・蒋介石(滞日:1912ー1914?)が日本に亡命していた時期があり、太平洋戦争中にはインドからチャンドラ・ボース(滞日:1943ー?)が亡命していた。そして東条英機は戦争名を「大東亜戦争」として大東亜共栄圏構想を大義名分とした。1943年に東条英機はボースと会談して彼のインド独立に大いに共鳴しているが、ボースの意思を受けて独立を果たしたインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていた。ここにも大東亜共栄圏構想が植民地支配ではないという明確な証拠がある。

  短期的視点からすると日本の状況は極めて不利な点が多い。まず第一に、理由はどうあれアメリカの謀略に乗ってしまって無謀な戦争に突入したことが最大の過ちだったかもしれない。そしてそれは中国の蒋介石やアメリカとの交渉の中で避けられたかもしれない瞬間が何度もあったことからも言えることである。それは近衛文麿の一存に掛っていたとも言える。そして近衛が一命を賭して戦争回避に動いていたならば、あるいは戦争も別の形になっていたかもしれない。だが総じて戦争を欲したのがメディアであり大衆であったことは間違いなく、指導者がだれであったとしても、運命の大筋は変わらなかったと観るのが恐らく正しいのであろう(20.11.7「運命論」)。そして直接の原因が陸軍の専横による国策(戦域不拡大方針)変更と無謀な大陸での満州建国にあり、それによって大義を失ったことが最大の過ちであったと言えるだろう。近衛に関して逸話を付け加えたい。近衛が最初厭戦論に立っていたにも拘らず、途中から拡大論に突き進んだのは国民が熱狂的になっていたからであり、ポピュリズムに依って立っていた近衛としてはそうせざるを得なかったという事情がある。だがそれは宰相としての保身であり、そのことを見通してか、やはり厭戦論に立つ天皇が「近衛は弱いね」と漏らしたことがあるそうだ。天皇陛下だけは歴史を俯瞰した正しい目でみておられたようである。

  事象の流れというものは、大衆の浮ついた意思によってほとんどが決まる。たとえそれが指導者や思想家などによって先導されたものであるにせよ、大衆の支持が無ければ挫折するのが普通である。毛沢東は史上最悪の独裁者であったかもしれないが、彼が「長征」という逃避行の中で行った政策だけは貧しい国民にとって有益であったこと故に、それを視察した西欧のジャーナリストをさえ感嘆させ、ついには米国が支援した腐敗した国民党軍に勝利したのも、圧倒的多数の農民の支持があったからである。その後の毛沢東の傲慢によって為された無謀で共産主義に立った「大躍進政策」で失敗し、権力を奪われたにも拘らず「文化大革命」という仕掛けで復活できたのも、若者の熱狂による「紅衛兵運動」があったればこそであった。鄧小平が1989年6月4日に天安門で武力弾圧を行ったのも、その民主化の動きが全国に広まるのを危機的状況と観たからであり、彼の政治感覚は正しかった。彼は妥協は中国を消滅させるとまで考えたのである。2012年の中国指導部による反日官製デモと暴動は、決して中国国民の願うものではなかったが故に、それは一時の騒動に終わった。

  では太平洋戦争直前の日本の大衆の動きはどうであったのだろうか? 日清・日露の戦争に短期間で勝利した日本は、あきらかに傲慢になっていただろうし、メディアもそれを煽る形で戦争を望んだ。大衆がポピュリズムに頼った近衛文麿という現代センスのある貴公子を首相に選んだのは、ある意味では戦争を避けたいという国民の願いでもあったが、近衛が戦争を避ける決断ができなかったのは、その時点で大衆が既に熱狂的に戦争を支持していたからであろう。多くの戦争開始時点での国民の熱狂が、指導者に戦争への道を選択させたのである。これは指導者(政治家を含む)・マスコミ・大衆という3者による演劇であり、どのようなストーリーを作ることもできるはずだが、状況論からするとほとんど選択可能な道は1つに絞られる(1.18「状況理論」)

  東条英機一人に戦争責任を負わせようとする輩がこれまで多かった。だが筆者は以前からそうは考えなかった。最近のNHKの番組でそれが証明されたと考えている。陸軍出身とは言え、彼ほど日本の行く末を真剣に案じた人物はいなかったであろう。それは東京裁判で絞首刑判決を聞いた時の彼の表情や態度に表れている。彼は一礼してその場を去った。そこに武士道の鑑を観る思いがした。彼は天皇・国民・海外から好評価を得ていたと言われる。決して無謀な謀事をするような人物ではなく、実直な官吏に近い存在であった。そしてどちらかと言えば厭戦論に立っていた。開戦を最も強く主張したのは別人物であり、閣議の大勢はその人物の強硬発言によって決まったと言って良い。

  大衆は戦後のGHQの洗脳教育・メディアや左翼による宣伝で心替えをした。戦争の責任を天皇に求めなかったのは幸いであるが、それを東条一人に負わせようとした。そして多くの国民が戦争被害者と名乗り出た。当時何も文句を言わなかった人が、自分を被害者だと思い直したのである。そして国民全体が冤罪を勝ち取るためにはスケープゴート(代償いけにえ)が必要であった。東条はまことに気の毒な、責任を負わされた一人であった。筆者は最大の責任者はマスコミであり、その中でも朝日新聞・毎日新聞は大きな責任を負うべきだと思っている。だが朝日新聞は旭日旗に似た社旗を今でも使っているし、社説だけは正反対に左翼に切り替えたが、頭の中は陸軍統制派と極めて近い。であるから右であれ左であれ、国民を扇動することにより、国論を先導しようという気になっている。このようなことから、戦争が避けられる条件は無かったと言えるであろう。


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