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【時事評論2021】

発見の科学と検証の科学

2021-08-05
  このテーマのタイトルは6月2日にNHKで再放送された「フランケンシュタインの誘惑」の中の『科学史 闇の事件簿 森鴎外』(2017年6月に初回放送)でコメンテーターを務めた東京大学大学院医学系研究科教授の佐々木敏が語った言葉から採った。彼は科学の本質的な点に慧眼を以て考えを語ってくれた。この番組では多くのことを教えられたが、それは教科書で教わらなかったことでもある。かつての日本人科学者の評価が筆者の中で大きく変わった瞬間でもあった。その全てを記録するわけにはいかないが、エッセンスだけでも紹介したいと思う。

  南極大陸にタカキ岬という名の付く場所がある。脚気に悩まされたイギリス探検隊が、高木兼弘の論文によって脚気から救われたことを記念したのだという。だが日本では彼の名を知る人はほとんどいない。日本では日露戦争で27000名もの兵士が脚気によって死んだという。それは森林太郎(森鴎外)という名誉心に駆られた軍医の指導によって起こった悲惨な事件であった。だがそれは教科書には載らない闇に葬られたような事件でもあった。本項では科学が誤った先入観や名誉心のための意固地な主張によって歪められた典型的事件を扱いたい。個人を誹謗中傷するために書くつもりは毛頭ない。そしてこの事件の遠因が、森林太郎の母親の英才教育にあったことも、重要な要点として取り上げたい。

  古代中国では医者を4つの位に分けたそうだ。その最上位は「食医」であったという。食は人間の健康の最も基本的要素であり、それが偏ると病気を惹き起こすということは旧くから知られていることであった。19世紀まで人類は病気の原因というものを知らなかったが中国人はそれを見抜いていたのかもしれない。残念ながら日本の森林太郎は医師という科学者でありながら食と医の関係を無視し、自らの専門分野である細菌学に固執して大きな過ちを犯した。

  森林太郎(森鴎外)は1862(文久2)年に島根県の医者の家に生まれ、教育熱心な母の指導により5歳で論語、8歳でオランダ語、10歳でドイツ語を学ばされた。11歳で第一大学医学校(東京大学医学部予科)に入学、19歳で現在の東大医学部を卒業し、陸軍軍医となった。当時天童と呼ばれたそうである。22歳で軍の特命を受けて、1884(M17)年8月24日に横浜からドイツに留学した。この頃ドイツでは1872年にロベルト・コッホが細菌(炭疽菌)、1882年に結核菌、1884年にはコレラ菌を発見し、細菌学が隆盛を極めていた。そのコッホの下で森は細菌学を学んだ。ここで森は日本に対する揶揄に対し、ドイツ語で反論するという気骨を見せている。だが彼が帰国してから行ったことは、正に西洋の真似事だったことを証明した。だがそれでも陸軍は彼を頼り、森は45歳にして軍医のトップとなった。彼はそれだけに止まらず、小説家としての名声も手にした。

  1883年に軍艦龍驤(りゅうじょう)で乗組員367名中169名が脚気に罹り、25名が死亡するという事件が起きた。海軍軍医の高木兼寛(かねひろ)はイギリスで学んだ疫学から考え、その原因を探ろうとした。2年後に栄養の偏りに原因を見つけ出した。これは医学の世界で初めての卓見であった。彼は軍艦筑波を使い、333人の食事を洋食にして壮大な比較実験を行った。その結果一人の脚気患者も出なかったという。彼が麦飯を導入してから患者はゼロになったのである。その成果を1866年に論文として発表した。彼は「脚気栄養欠陥説」を唱えたのである。だが彼もまた、3大栄養素以外の必須栄養素があることには気付いていなかった。

  1884(M17)年8月3日、18歳の青年が突然路上で倒れ、死亡した事件が報じられた。原因は脚気であったという。急性心不全を起こす神経の病気である。現代ではその原因は分かっており、ビタミンB1の不足から来るものであり、これは江戸時代から問題となっていた。武士は白米を食べていたため脚気になりやすく、庶民は麦飯や蕎麦を食べていたのでほとんど脚気にはならなかったと言われる。そのためこれを「江戸病」とも称した。その時代には麦飯や蕎麦の効用の理由は分からず、それは明治時代まで続き、年間3万人が脚気で死亡したとされる。陸軍・海軍でも兵士の4割が脚気を患っていたというから、正に結核と並ぶ国民病であった。兵士の場合は白米が主食であったことも大きな要因であった。白米はビタミンを含む栄養豊かな胚芽を取ってしまっているので、でんぷんをエネルギーに変換することができず、やせ細って死に至る。明治時代には炭水化物・タンパク質・脂質という3大栄養素は知られていたものの、必須アミノ酸・ビタミン・必須微量元素というものは知られていなかった

  陸軍の軍医は東大医学部出身者で占められており、森の主張した脚気細菌説一色に染まっていた。だが当時でもヨーロッパには脚気という病気は存在せず、白米を主食とする日本に特有なものであった。ドイツで森の書いた脚気に関する論文は偏見に満ちたものであり、とても学術的なものとは言えなかった。脚気の原因については一切触れなかったのである。帰国すると高木の中傷に走り、1889年には白米の栄養を証明するための実験(「陸軍兵食試験」)を行ったが、それは科学的な手法に基づいているとは言えなかった。まずもって8日間だけの試験で証明するには短すぎたのである。エネルギー的な効率面だけを強調したが、脚気とは関係のない実験だった。高木はこれらに反論しなかった。というか、当時の雰囲気からすると反論できる雰囲気ではなかったらしい。だが高木の論文は海外で高い評価を得ていた

  陸軍は森の実験を高く評価し、白米を支給し続けた。森は「白米を1日6合食べていれば、副食・おかずが無くても問題はない」とする意見を陸軍に説いていたという。1894(M27)年に勃発した日清戦争において、陸軍は戦闘による死者が450人であったにも拘らず、脚気による死者は4000人に上ったという。それでも森は解任されず、台湾総督府陸軍局軍医部長として台湾に派遣された。そして悲劇は台湾でも起こったのである。日本軍兵士23338人に対し、脚気患者21087人(9割)が発生し、2000人以上が死亡したのである。

  ここで陸軍と海軍の違いに驚かされる。元々折り合いの悪い両軍であったが、海軍では麦飯に切り替えていたため脚気患者はほとんど出ていなかった。日清戦争ではわずか34人でしかも軽症であったという。海軍は陸軍を批判したが、お互いに面子の掛かった泥試合となり、陸軍が食事を改めることは無かった。そのような中、陸軍の兵士から麦飯を支給して欲しいという声が上がる。それでも陸軍軍医部は認めず、森も軍を擁護する論文を発表した。ここに科学者としての森の姿勢に重大な欠陥があったことが分かる。森が擁護した理由の1つは、陸軍の兵站では米の方が水に濡れても腐りにくく、玄米や麦は腐りやすいという事情があったようである。海軍は出港時に食糧を積み込むので、保管に問題はない。

  1904(M37)年、日露戦争ではさらなる悲劇が起きた。森は第二軍軍医部長(軍医部ナンバー2)として従軍した。その森に前線の軍医から「麦飯を支給すべきではないか」との進言があった。だが森はこの進言を黙殺したという。日露戦争は1905年に集結したが、陸軍全体で脚気患者が25万人発生し、2万7468人が死亡しているのである。これに対し海軍の脚気死亡者は3名であった。このような事例は前代未聞であり、古今東西をみても稀に見る被害であったという。しかもこの事実は教科書では全く触れられていない。森のエリート意識と独善性が顕著に出ている彼による歌がある。「ますらおの玉と砕けしももちたり それも惜しけど こも惜しボタン 身に添うボタン」(現代意訳)というもので、「あまたの兵士が玉砕したのは惜しいが、自分の名誉であるボタンも惜しい」という意味である。

  世間は陸軍を批判し、軍医総監は責任を取って辞任した。代わってその地位に就いたのは何と森林太郎であった。1908(M41)年になって陸軍は臨時脚気病調査会を設立し、その長に森を充てた。1908年6月にコッホが来日すると森はコッホに研究法を相談している。コッホは「伝染病の脚気」と「栄養不足の脚気」の2種類があるのではないかと言い、オランダ領ジャカルタに似た病気があるからそれを調べてはどうかと提言した。森は早速調査員を派遣したが、既にその病気は無くなっていた。医師で生理学者のフレインスと生理学者のエイクマンが、日本の高木兼寛の論文を読んで、住民に玄米や豆を与えていたのである。彼らは玄米に含まれ白米には無い成分が効果を発揮したことを突き止めていたのである。すなわち米ぬかに未知の成分があると予想していた。だが調査員が米ぬかが脚気に奏功することを報告したものの、調査会はこの報告を闇に葬った。しかも調査員を罷免したのである。

  突破口を開いたのは医学とは関係のないと思われていた農学研究者の鈴木梅太郎であった。34歳で東京帝国大学農科大学の教授に就任していた。彼はエイクマンらの研究に注目し、米ぬかを研究し始めた。そして有効成分を発見し、アベリ酸と命名した。1911(M44)に論文を書き、調査会に報告した。世界で初めて全く新しい必須栄養素を発見したのである。現代で言う「ビタミン」を発見したのであるが、調査会は農学者の言うことに冷淡であった。「ぬかで脚気が治るなら小便を飲んでも治る」と非科学的な揶揄もされた。鈴木はアベリ酸を臨床試験で使ってほしいと訴えたが、断られ続けたという。そこで1912(T1)年8月、ドイツの科学雑誌に論文を掲載し、その中でアベリ酸をオリザニンと改名した。これはコメを意味するラテン語から取ったのである。だがそれより半年ほど早く、1912年2月にポーランドの生化学者フンクが同じ成分を「ビタミン」と名付けて発表していたのである。その名称は「Vital=生命に必要な」という英語から取っていた。1914年のノーベル賞候補に鈴木梅太郎がノミネートされていたが、発表の遅れと命名の不適切さによってノーベル賞を逃したようである。

  1914(T3)年に森は「衛生新篇」という医学書を出版している。だがその中で脚気は伝染病に分類されていたのである。つまり時代遅れであったとともに、決定的な間違いであった。森は1922(T11)年に60歳で死去したが、生涯脚気細菌説の誤りを認めなかった。1924年になってやっと、臨時調査会は脚気の原因がビタミンの欠乏によるものであることを認め、解散した。つまり森が生きている間は科学的事実を認められなかったのである。

  鈴木梅太郎のオリザニン発見の重要性を、彼自身は十分認識していなかったようである。彼は実用化に研究を進めているが、普遍的な重要性を認識していなかったために発表も遅れたと考えざるを得ないところがあるという。もし彼がこの新発見の栄養素の重要性を認識し、それを一早く論文にして世界に発表していれば、日本の生化学に於ける進歩は著しかったであろうという。そしてもし1914年にノーベル賞を獲得していたら、日本の最初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹の1949年の受賞より35年も前に受賞していたことになる。

  冒頭で紹介した佐々木教授は、高木兼寛の科学者としての態度に対して誇りを感じているという。佐々木は観察と実証という科学の本道を歩んだからである。それに対して森林太郎はエリート意識と自分の専門に拘り続け、さらに軍の都合に合わせた説を主張して譲らなかった。そこにはエリートにありがちな傲慢さや偏見が見て取れる。佐々木は、科学には発見と検証という2つの側面があり、日本は発見には優れた業績を残しているが、検証という点で非常に遅れていると述べる。また佐々木は、医学には介入試験というものがあることを説明する。こうしたらどうなるという手法である。高木はそれを実践し、森は一切やらなかった。自説を強化するための実験をやっただけで、他の説を検証する実験をしなかったのである。しかも彼のやったその実験は科学的に的外れであり、脚気には何の関係もないものであった。

  筆者は以上のことから、いくつかの教訓を読み取った。それは英才教育には危険な傲慢さを生み出す可能性があるということ、それを幼少時から無理矢理押し付けるのは極めて良くないことだということである。どうも森の母親は夫が医師であったこともあって、英才教育を押し付けた観がある。人間は本人が才能を示さない限り、大人が期待から幼少時に英才教育を施すべきではない。そういう無理をした結果が森のような怪物を生み出したとも言えるであろう。森が己のプライドに固執したことによって何万人もの人が戦場で脚気によって死んでいったことを、小さなことと評価すべきではない。

  もう1つの教訓は科学の検証実験を疎かにしてはいけないということである。喫煙を全ての病気の原因であると見做している現代のイデオロギーめいた仮説は、筆者には何ら検証されていないことではないかと思える。そしてその逆の考え方である、「喫煙はストレスを和らげて健康維持に貢献しているという学説」(そのようなものがあるかどうかは知らない)についての検証も行われていないと思っている(7.18「喫煙の効用 」)。森の時代の科学の世界にあった、ある特定の説に固執するという体質は現代にも引き継がれていると思うのである。日本は検証の科学という点に於いて世界からかなり遅れていると、番組のコメンテーターの学者らは指摘している。


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