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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

経済成長至上主義の蹉跌

2021-05-24
  5月23日のニュースの中に、中国で「盲盒(ブラインド・ボックス)」という商品購入の仕方が流行っているというものがあった。購入後に箱を開けるまで中身が分からないという仕組みだそうで、そのスリルを味わうことが若者の間で流行っているのだそうだ。主としてフィギュアマニアがこれにはまっているようで、生きた動物までグッズとして詰め込まれていたことで批判が巻き起こった。国営メディアはこれをギャンブルに例え、ブラインドボックスの商品が一種の依存症を生んでいると警告。新華社通信は今年1月の論説で、一部のメーカーは「消費者に対して商品を買い続けずにはいられない欲求を高め、中古市場の投機的売買をあおっている」として、ブラインドボックス業界の規制強化を訴えた。中国がこうした正論を堂々と社説に載せられるということに、ある意味羨ましさを感じた。民主国家では価値観の多様化を認めているために、こうした本質的だが、上から目線の議論はタブーとされてしまっている。

  中国が文化大革命などを経て過去の伝統的価値が否定されてきたことから、人々は今や金権主義に走っている(1.27「中国・韓国の若者に見る金権主義(4037文字) 」参照)。カネが余ればそれを自分の趣味に振り向けるのは当然であるが、その趣味が生産的なものや創造的なものではなく、消費的なものになっているのが現代の特徴と言えるかもしれない。筆者も経済的に豊かであった勤務していた頃には、毎月10万円ほどを小遣いとして使っていたが、そのほとんどが園芸などの趣味の道具や資材を購入するためであった。これらは一通り揃えてしまえば、その後は余り費用は掛からない。だが欲望がそそのかされて生じた消費欲は歯止めが効かないのが特徴である(1.7「制御思想」参照)。フィギュアマニアの中には壁一面をフィギュア収納の棚にしている者もいるらしい。そんな問題から派生して、本項では「経済成長至上主義の蹉跌」というテーマに取り組んでみることにした。

  現代が経済成長至上主義にあることは歴然としており、新聞などのメディアでは経済発展を求め、GDP信仰に陥っている。それは筆者の自論によれば「競争原理」が働いているからであり、競争が無ければ経済成長がマイナスになっても、それを喜ばしいことと受け止める議論も成り立つ(20.4.25「状況理論からマイナス経済成長の善悪を考える 」参照)。特に人間活動によって環境破壊が起こっているという認識に立てば、そうした議論が当然のように語られるようになるであろう。だが誰もそれを望んでいない事も確かであり、競争に対する勝利・経済の発展は、正に人間本能と言えるという論も成り立つ。競争の場になっている地球環境、あるいは世界というものの空間が無限である限り、そして資源などが無限である限り、競争は問題とならないかもしれない。だが現実は有限な世界で我々は競争に明け暮れており、その限界を既に超えてしまっていることを地球温暖化は教えている。

  競争というものがどうして起こったのか、なぜ避けられないのか、という問題に対しては既に別項で議論した(20.9.7「人間は「競争」、および「競争心」を克服できるか?  」・20.9.16「競争はいつ芽生え、何をもたらしたか?  」参照)。そしてこの「競争原理」に基づいて、人間はあらゆる分野で競争をしてきた。たとえば科学者は発明・発見の栄誉を得ようとしのぎを削ってきたし、政治家は力を得ようと権力闘争や国力競争に血道を上げてきた。スポーツマンは試合に勝利しよう、あるいは記録を塗り替えようと汗水を流している。庶民でさえ、豊かな生活を誇るために資産を形成することに一生懸命である。もし孤島に住むたった一人の人間であれば、競争という概念すら思い浮かばないに違いない。競争は並び立つ人間が多数存在するからこそ起こる現象であり、それは生存本能に基づいている

  その競争が過大であることが最大の問題であり、生活する上で必要な物が最小限あれば済むところを、人間は見依や栄誉のために他者より多く所有しようとしたりする。服は寒暖を調節するためのモノであったが、現代では他者に見せるファッションとしての要素が強くなり、何着もの服を持つのが普通になっている。流行遅れになれば、使えるはずの服も着られなくなる。そしてその人間世界で生ずる欲望を、企業は儲けを多くするためにコマーシャルでそそのかし、過剰で不必要な欲望を生み出そうとする。現代が「欲望の資本主義」と呼ばれるのはその故である。だがそれが間違っていることが徐々に分かってきた。最初にその間違いに気付いたのは環境学者であったろう。だがその科学者も、分野が異なる研究者はこれを不都合として意識の中に入れることすら避けている

  最後までこの不都合を考えようとするのを避けるのは多分政治家であろう。彼らは自国の経済の成長にのみ価値を見出しているからである。メディアでさえこの不都合に目をつぶろうとしており、それは多分に無意識なものである。例えば日本では現在、NHKが大河ドラマとして「青天を衝く」を放送しているが、明治期に日本経済を発展させた渋沢栄一を称賛する内容となっている。これも経済成長至上主義に立っているからこそ成り立つ番組なのであり、未来世界では必ずしも渋沢栄一は時代の英雄として扱われていないかもしれない。なぜならば、未来世界では経済成長は悪であると人々は見做していると思われるからである(20.4.25「状況理論からマイナス経済成長の善悪を考える 」参照)

  だが地球環境が破壊しつつあることを多くの国民が知らされつつある中、相変わらず経済成長が善と見做されている矛盾を人はどうつじつまを合わせようとしているのであろうか。筆者にはその気持ちがよく分かるだけに、人間の愚かさを感じざるを得ない。そのことを人々が矛盾だとまだ感じていない理由は、メディア・政治家・教育者など、全ての機関の人々が、そう考えていないからである。つまり地球環境問題と経済発展は関係ないこととして扱っているからであり、諸問題を個別化してしまっているために危機感を感じないのである。さらに言えば、人々はこの不都合を考えたくないのだとも言える。都合の悪いものには蓋をするという心理である。

  だがこのままで行けば地球環境は変貌し、まず温暖化による気候変動で多くの国で多くの人々が苦しむことになるだろう。それは飢餓という形で表れるかもしれない。筆者はその前に戦争という事態が発生すると考えている。たとえそれを想定しなくても、2050年には国連が予想するように、気温が数度上昇して過酷な気候となるだろう。そして筆者らが予想するように、2080年以降には人間を含む動物が全て窒息死する危機に見舞われるだろう。これらは数十年の間に徐々にだが確実に分かる形で進行するため、誰もが2050年頃には人間は間違っていた、間違ったことをしてきた、と気づくだろう。その時に、その原因を辿っていけば、人間が動物界にはない特殊な競争を人間界の中で繰り広げてきたことが根本的な原因であることを悟るであろう。そしてその悟りの直前まで、経済成長は善であると信じてきた自分達の愚かさに気付くのである(20.11.28「未来世界の経済を考える」参照)


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