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【時事評論2021】

全体主義と個人主義

2021-04-22
  テーマの「全体主義と個人主義」について、政治体制の違いだけでなく、社会の在り方として見たらどうなるか、という疑問が湧いた。そうした観点から人類の歴史を振りかえってみた上で、現在の世界での政治体制について比較してみたい。さらに未来世界ではどちらを採用するかについても答えたい。

  人類が類人猿としての祖先であった頃は、樹上生活をしていたと考えられており、そこでは採集生活が営まれていたのだろう。だが類人猿は決して他の動物に対して強者ではなかったと考えた場合、樹上でも1つの社会的群れを作ってある程度の助け合いがあったかもしれない。場合によっては木の実の奪い合いがあったとも思われ、そこにはルールがあって無きが如し、という具合であったろう。

  人類の祖先が地上に降り立ったのはラミダス原人の頃ではないかという学説があるが、この頃からメスの奪い合いによるトラブルを避けるために、家族という形態が出来上がったとされる。そこには家族の中のオス・メスの役割分担が生じ、養育期間が延びていくと同時に一子出産が普通になっていったであろう。その家族形成自体は決して個人主義と言えるようなものではなかった。やがて人類の直系祖先であるホモサピエンスが誕生した頃には、既に集落形成・分業が生じていたと思われる。それは群れ(グループ)の中に約束事や分配行動というものが生まれていた可能性が高い。そのような群れを作るようになると、孤立した存在というものは非常に危険な状態となり、初期人類は集団行動をしたと思われる。それは上記視点の分類からすれば、全体主義的なものであった。

  やがて集団がそれぞれ各地に拡散を始めたことにより、集団の絆は強化されていった。集団ごとに暗黙の掟が出来上がり、それを確認するために祭祀という祭りごとが行われるようになった。グループのリーダーはカリスマ性のある祭祀を主宰する人物が最適であったかもしれない。体力だけでグループをまとめることは不可能になっていったであろう。そうした中に自然と掟が定まっていった。群れの誰もそれに異議を唱えることは無かったと思われる。

  集団が部族となり、やがて支配領域を国家として意識するようになって、掟は法というものになっていった。文字を持つ場合は成文法となったが、文字を持たない部族は弱体化していった。文字は文化や法の継承に大きく役立ったと思われる。王制という政治形態が出現し、それはしばしば血縁的に継承されていく。ここでは完全に全体主義と呼ばれるピラミッド構造ができあがった。すなわち個人の利益よりも全体(ないしは支配者)の利益が優先されるという掟である。それは人類の初めから現在に至るまで、基本的な人間集団の構造であった。

  近代に至って、思想的に諸々の個人尊重論が出てきた。あるいは政治体制の在り方として、個人の位置付けが議論されるようになり、そこからデモクラシーと呼ばれる民主的な考え方も出てきた。その理想を求めてフランス革命などが起こり、ヨーロッパの先進的諸国は民主化されていった。それは個人主義への流れを作り出した。人間個人個人の意思を尊重し、国家はそれを束ねる機能を果たすが、その在り方を決めるのは個人であるという思想である。

  逆に国家の安定を優先させた思想もいくつか出てきた。近代に於ける全体主義の萌芽である。その1つは国家主義(ナショナリズム)と呼ばれるものであり、ドイツにその端緒が見られる。もう1つは共産主義(コミュニズム)と呼ばれるものであり、これは思想家から生まれたものであり、発想を原始時代に求めた。発祥はロシアであった。どちらも分類的には全体主義である。イタリアに起こった国家主義はファシズムと呼ばれることもある。つまり歴史的には人類は全体主義を主体に群れ(集落・民族・国家)を束ねてきたが、近代思想の誕生とともに個人主義へと傾斜していったと観るのが正しいであろう。

  現代においてはどちらかと言えば民主主義国家の方が多いと言えるだろう。全体主義の中には、①社会主義・②共産主義・③独裁主義・④権威主義(宗教ナショナリズム)・⑤専制主義などが含まれるが、独裁主義は多いものの、明確に社会主義を取っている国は少ない。中国は資本主義的専制独裁主義であり、キューバは明確な社会主義、ベトナムは民族的社会主義、というような色合いはあるが、恐らく世界に10ヵ国もないのであろう。だが最近の情勢を見ていると、形態的には民主主義と言われていても、事実上選挙が正当に行われず、独裁者の意のままに運営されている国家は少なくない。それは数を増しているとさえ見える。

  なぜそうなったかという理由は明瞭である。国家が発展していく過程においては個人の主張というものが大いに役立つが、国家の発展が限界に近づいたり、衰退を始めるようになると、個人の主張というものが百家争鳴になってしまって、政党や議員間、はては国民の間に分断が生じるからである。現代は地球温暖化もあって「成長の限界」を迎えており、超越国家と言われてきた現代のアメリカが正にそのような状況にあり、既に国家の栄枯盛衰の波動の頂点を超えて衰退に向かっている。生活密接産業は衰退し、先端知財産業でのみ世界をまだ制覇しているが、中国の台頭によってそれも崩される運命にある。日本は努力の結果最大限に成長したが、世界全体の緊張化の中で立ち位置を鮮明にできずに衰退の途を辿っているロシアは一時期は化石燃料輸出で勢いを取り戻したが、アメリカのシェールオイル革命で再び失墜した。韓国は日本のインフラ整備によって近代化できたが、日本から独立してからは知財の略取によって成長はしたものの、独自の技術を持たないためにその衰退は激しい。

  中国だけが昇竜的勢いで成長しているかというと、それは大いに疑問であり、韓国と同様、アメリカ・日本の資本支援・技術支援があったればこそ成長できたものの、やはり独自の技術に乏しい。アメリカから学んだIT技術(5G・AI)ではアメリカを超す勢いがあるが、それらの多くは盗取技術であって、その応用である。中国が科学ノーベル賞を取れない理由はそこにある。だが近年の中国は応用的な視点でみると明治維新以降の日本と同様その躍進は目覚ましく、決して侮れない存在である。中国による科学論文の総数では既にアメリカを超えており、問題は革新的な高度論文においてまだ引けを取っているという点、アメリカ留学あるいは共同研究などによる成果が多いという点、にあるだろう。

  中国が凄まじいまでの勢いを示し得たのは、以前のレベルが低すぎたところに、鄧小平が改革開放を押し進めたことによる。そこに全体主義の優位性も絡んだからである。もともと中国文明は高度であったため、その知力が生かされた。日本は特異な存在であり、全体主義の優位性もなく、資源や領土に恵まれているわけでもなく、単に創造性豊かな独自性を持っていること、そして国民性が努力や忍耐力に富んでいることだけが発展の要因であった。特に太平洋戦争後に灰燼の中から復興して世界第2の経済力を持つに至ったのは、並々ならぬ努力の結果であるとしか、他の理由は見いだせない。その日本は全体主義的な要素を持ち、非常に高いガバナビリティーを持っており、天皇という象徴的(求心的)存在が変わらず存在することが安定を保っている一つの理由であろう。それを「日本型社会主義」と称した論人がいるが、筆者もこの表現を好んで使う。ある意味では民族社会主義の1つと称してもいいのではないかと思っている。

  全体主義を国家の安定を優先する考え方個人主義を個人の意思を優先する考え方であると大雑把に分けて考えると、明らかに古代から続いてきた全体主義の方に利がある。筆者は人間論からしても、全体主義の方に理があると考えている。そして、国家が上昇期にあっては個人主義に優位性があるが、衰退期には個人主義は決定的欠陥を露呈すると見ている。そのため個人主義に立つ民主主義という体制も衰退期に国家をさらに衰退させる要因になると考えている。アメリカは株価という見せかけの指標ではまだ衰退していないという論もあろうが、産業の空洞化という点で明らかに衰退しており、それは戦後に生じたと思われる。それが何時頃からかという問題に対する解答をまだ得ていないが、鉱工業生産(重工業)が下降を辿った頃ではないかと思う。

  全体主義と個人主義のどちらに優位性があるかと問えば、答えは上記したように全体主義にあると考える。だが日本のような民主主義国家であっても、諸々の条件が重なって全体主義的傾向を持つ国家もあり得るところに判断の難しさがある。この点に関してまだ学会・マスコミ・世論の中に議論が起こっているとは言えない状況にあり、筆者としては今後の議論に期待したいと言うに留めておきたい。

  未来世界では、そのどちらを取るかを考えてみたい。かねてから主張しているノム思想や未来のノム世界は、結論から言ってしまえば「(全体主義+個人主義)÷2」という形になるであろう。すなわち、地球と世界連邦の安定を最優先に考えるが、個人の意思を最大限に尊重し、評価主義という手法によって民意を政治に反映させるという体制を構築する(3.16「評価主義の効用 」参照)。それはある意味で制御思想に拠って説明できることであるが、詳細は別項に譲る(1.7「制御思想」参照)。その未来世界では人々は自分の直感や考え方を、事象全般(製品・番組・書籍・政治・司法)に亘って評価できる。そうした社会を、未来のネットシステム(ノムネット)によって可能にする(2.1「ノム世界の情報システムの提唱」参照)そうした社会が最善の成果をもたらすとすれば、テーマの「全体主義と個人主義の優位性を問う」ことは意味が無くなるのである。



  

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