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【時事評論2021】

中国情勢

2021-04-16
  中国情勢については多くの情報があるが、基本的に中国の性質や思想は建国以来それほど変わっていないので予想し易い。歴史を辿ってその流れを見ていきたい。毛沢東は教師であったため、真摯に国家改造を求めたに違いない。そして1921年にソ連のコミンテルン指導の下、共産党としての最初の会議に7名の一人として出席している。だが国民党と共産党の間で揺れ動いた時期があった。そして1927年に農民を中心とする武力革命を目指し、1935年には上司であった周恩来から実権を奪い、軍の最高指導者となる。途中彼の理想とした土地解放は挫折しており、彼の理想はいつしか権力闘争へと変質していった。日中戦争・国共合作を経て、ついに1949年10月1日に中華人民共和国の設立を宣言し、主席となった。建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。1953年には党の要職を共産党員が独占した。1954年に憲法が制定され、毛沢東が国家主席に就任した。この頃から独裁的な粛清が始まっているとされる。権力闘争の権化に化し、人民を数千万人犠牲にしたことはよく知られている。毛沢東は「大躍進政策」の失敗で1959年に一線を退いたが、権力の奪還を目指して1966年から「文化大革命」を起こした。毛沢東時代の1960年代に中国は核兵器を開発している。これは世界制覇をこの頃から目論んでいたことの証左である。

  中国がその革命思想を転換したのは鄧小平によってである。毛沢東後の共産党における権力闘争は熾烈を極め、毛沢東の妻の江青ら四人組が率いる一派との抗争があった。まだトップでなかった鄧小平は2度の失脚を乗り越えて復帰し、文化大革命を収束させると、1974年にアメリカを訪問して近代化の必要を痛切に感じた。だが1976年に周恩来が死去すると批判に晒されて失脚する。1976年4月の第一次天安門事件の責任を問われて役職を解かれたが、四人組の逮捕によって1977年に復権する。そして副総理として1978年に来日して改めて改革の思いを強くした。

  日本から帰国後直ちに文化大革命を否定し、「改革開放路線」を唱えた。彼はアメリカと日本をその目で見たことから、農民革命では中国は力を持ちえないと考え、韜光養晦(とうこうようかい:相手に逆らわず欲しいものを手に入れる)を戦略として取り入れ、なおかつ共産党支配を確立しようと決心した。鄧小平によって中国は資本主義を取り入れて発展し、元々頭の良い民族であることから一躍世界に躍り出ることができた。今なお共産党であり続けながら世界の大国に成長したのは中国のみであり、他国の共産党が壊滅していったのとは一線を画しているのは、一重に毛沢東を超えた鄧小平の思慮にある。1979年にはアメリカとの国交も樹立した。だが民主化の兆しが高まり、1989年6月4日に第二次天安門事件(六四天安門事件)が起こると、民主派の趙紫陽を抑えて共産党死守の立場を取り、天安門事件を武力で抑え込んだ。つまり中国は鄧小平の時代に、資本主義を取り入れた共産主義という複合体制を取ったことで成功したとも言える。2つの体制の良いとこ取りをしたからである。

  鄧小平のプラグマティズム(実利主義)は安価な労賃と熟練労働者による外資導入による輸出志向型工業化政策として結実した。「白猫黒猫論」はそれを端的に表したものである。1979年の中越戦争では彼の地位が確固たるものになったという。毛沢東を継いだ華国鋒に不利な状況が生まれ、主席は胡耀邦に引き継がれた。鄧小平は軍事を掌握し、事実上の鄧小平体制が確立した。1980年には中ソ友好同盟相互援助条約を破棄し、モスクワオリンピックをボイコットして1984年のロサンゼルスオリンピックには参加した。当時は米ソ冷戦の最中であり、米国は中国を軍事的にも支援した。カンボジア内戦ではASEAN諸国との関係を改善させた。1984年当時の中曽根康弘内閣から、日本の直接投資が拡大している。一方愛国主義教育を推進させ、全国に日本の中国侵略を知らしめるために記念館を作らせたりしており、二面性は明らかであった。1985年7月には香港などを介した大陸との間接貿易を台湾に事実上解禁させることに成功している。1989年にはゴルバチョフとの間でソ連との関係正常化を果たしている。

  だが民主化の動きには警戒心を怠らず、1989年6月4日に起こった第二次天安門事件(六四天安門事件)では武力弾圧に踏み切った。鄧の極めて優れている点は、失脚の憂き目を3度も味わったこともあって、決してトップにはならなかったことである。江沢民に総書記の座を譲ったのもその表れであると言われる。そして天安門事件の後、その責任をとって第一線から退いたというところも日本の武士道精神に適っており、日本人からしても理解しやすい指導者であった。退いたとはいえ、彼は遺言を遺した。それは南巡講話である。ソ連がペレストロイカで崩壊したのを見て、経済では開放しても、共産党支配の絶対性は維持されなければならないと後世に伝えたかったと思われる。南巡講話では「中東には石油があるが、中国にはレアアースがある。中国はレアアースで優位性を発揮できるだろう」という予言的な言葉を遺し、これによって中国はレアアースの寡占率を8割から9割に引き上げた。

  鄧小平亡き(1997年)後、中国は権力の均衡を図りながら集団指導体制的な安全運転をした。天安門事件の後遺症は重かったが、日中戦争で心に負担を負っていた日本が中国を孤立させることに反対し、率先立って援助を再開した。これを見て西欧先進国も、広大な中国市場を狙って一気に投資を増やしたと言われる。それが現在の中国の傲慢と専横を生んだことは間違いないことである。そして非常に短期間の間に、「世界の工場」と言われるほどに工業的発展を遂げ、2010年末までに日本を抜いてGDPを世界第2位に引き上げた。

  このような昇竜期に登場したのが習近平である。習近平自身も父親が党の幹部であったことから、文化大革命時代に下放(地方に追いやられること)されるという体験があったが、富を持つ富裕階層の太子党出身である。権力に対する意識が極めて強く、また権力層の安定のために、冷徹な政策を考える傾向がある。そして何より、どこで学んだかは定かではないが、太古からの中華思想を取り入れたことで世界制覇を目論むようになった。2007年頃、中央党校校長時代に、「幹部は歴史を学べ。世界四大文明の中で中華文明だけが中断せずに今日まで続いている」と述べている。2008年に副主席に昇格し、米国を訪問してJ.W.ブッシュ大統領と挨拶を交わした。2009年に日本を訪れた際には天皇との会見をゴリ押しし、天皇陛下に対して尊大な態度を取ったことは日本人として忘れられないことである。2013年には国家主席・国家中央軍事委員会主席に選出され、党・国家・軍の三権を正式に掌握した。首相に李克強を据え、第5世代と言われる習・李体制を築いた。

  習近平は2012年11月に党総書記に就任した直後に、中華人民共和国の思想としての「中国の夢」を語った。これは中華民族の偉大な復興、とも言われる。これには「かつて東は中国から西はローマ帝国に及ぶ広大なシルクロードを勢力下に置き、鄭和の艦隊がアフリカの角にまで進出して文化や経済と科学技術をリードした中国の栄光を取り戻す」という意が込められている。そのための政策である「一帯一路」構想が打ち出されたのは2013年9月であり、公式には「AIIB」と一緒に10月にインドネシア国会での演説で表明された。1年にもならずにこれほど大胆な構想を矢継ぎ早に打ち出したということは、習の頭の中に長年構想されてきた思想であるということを意味する(20.12.8「中華帝国への道・その1」参照)。それは近年の動きを見ても分かるように、決して平和的なものではなく、軍事を用いた制圧を意味する。すなわち世界制覇である(20.10.12「中国の圧政の教訓 」参照)

  そのためにはアメリカを追い越さなければならないが、習近平がトップに就任したときの2012年時点ですでに53歳であった。米国をGDPで抜くのは2050年頃と言われていたことから97歳まで待つことはできないと考えた。そこで彼はまず、その地位が揺らがないように永久皇帝を可能にするように規定を変えた。その次にアメリカの衰退を早める挙に出たのである(20.12.13「中国に見るファシズム化 」参照)。だがその思惑はオバマ大統領(任期:2009-2017) 時代には可能と思われたが、米国にトランプという強者が現れたことで予定が狂ったと思われる(20.10.16「中国の急激な先鋭化は何を意味する? 」参照)トランプはディール感覚に優れているため、中国を潰しに掛った米中貿易戦争である。だがそれはソ連との間で行われた冷戦を真似たものであり、時代と状況がまるで異なることから必ずしもうまくいかなかった。何よりも中国は既に世界各国との間に、抜き差しならない経済的関係を構築しているからである。

     習近平は国家を統一するのに思想と法を用いることを考えた。習は就任直後の2013年2月、自ら唱えた「中国の特色ある社会主義(=習近平思想=中華帝国)」という概念を基に、法は国外にまで適用させて世界制覇の道具にするための「法治主義」を前面に押し出した(2021年1月:「改正国防法」)。だがこれは西欧流の司法の独立はなく、解釈も共産党が自由にできるため、現実には「人治主義」であると言われる。さらに2014年4月から政敵を駆逐するために汚職をネタにすることを考え、自らの出身地である浙江省の役人を上級管理職に抜擢し、「汚職追放」をスローガンに掲げた。これは国民に絶大な歓迎を受けたが、その実、抜擢した役人や太子党幹部にはほとんど手を付けず、政敵にのみ適用した。つまり権力闘争の手段をしたのである。「虎もハエも叩く」と語った言葉は有名であるが、その虎もハエも自分の配下の者は除外した。

  だが習近平の強引な手法があちこちでほころびを見せ始めた。中国の優位条件であった労賃の安さは賃金高騰でその優位性を失いつつあり、習はトップに就任直後からチベット・内モンゴル・新疆ウイグル自治区に目を付けたようである(3.4「中国経済は戸籍制度に支えられてきた 」参照)。これら異民族を中国のためにタダ働きさせれば、その優位性を保てると考えた。およそ2016年頃からこの政策が具体化し、強制収容所で中国語教育・習近平崇拝・愛国教育が行われている。それは長い事隠されてきたが、最近になって一気に世界が知るところとなった(4.3「中国のウイグル強制収容所の実態 」参照)。AIIBによる後進国への投資は非常に偏っており、中国にとって優位となる案件が優先されている。しかも巨額投資を一気に行って後進国を取り込んだことで、返済不能になる国が続出した。それは当初からの戦略であり、その軍事的要衝となる領土の長期借入・インフラ利権の独占がその目的である。しかも中国の投資は相手国の権力者への賄賂によるものであり、富裕層に有利なものであるため、被投資国には内政的不安定が生まれている。ミャンマーはその好事例であり、アジア・アフリカ・南米で同様な内戦状態が続発するであろう(20.10.3「中国の世界進出はガンの転移と似ている 」参照)

  中国は基本的に交易国の内政には不干渉であり、極端に言えば独裁国ほど手駒にし易いと考えている。内戦に乗じて武器や資金を投入して独裁国家を作ることに加担していると言っても過言ではない。西欧諸国がこのような中国の邪悪で異質な体制に気が付いたのはつい最近であり、それは極めて遅かった。筆者は以前から中国の危険性について指摘してきたが、それは虚しい空説教であった。だが習近平が時間との競争から事を焦っていることから、その歪が世界に明らかになってきたことで、世界もやっと中国の野望に気が付いたのである(2.28「中国の知的財産略取の手法 」参照)。その野望はとっくに明らかにされており、2013年以降に発表されてきた「六場戦争論」である。明確に年を挙げて50年以内に6つの戦争をしなければならないと説いている。日本もその中に入っており、尖閣諸島を強奪する計画となっている。もしかするとそれは成り行きでは沖縄も含むかもしれない。

  このような中国の思想と計画に、世界はどう対処したら良いのであろうか(20.9.22「先進国の中国に対する戦略の行き詰まり 」参照)。かつてドイツがナチズムという思想を唱えて世界制覇に動き出した時、イギリスは妥協をしたと言われる。だが現代ではトランプのときからバイデンに至るまで、アメリカは決して中国と妥協しようとは思っていない。だが日本だけは最前線という地政学的位置にあるため、態度をはっきり示してこなかった(20.9.22「中国が日本に対する先制攻撃を示唆 」・20.10.21「日本政府は中国に正当に対峙せよ!」・20.12.13「中国に見るファシズム化(3861文字) 」参照)。中国を名指しして非難しただけでかなりな反撃を中国から食らっている。日本は日米同盟を基軸にしてクワッド体制で軍事的に中国に対抗しようとしているが、それは当然のこととしてEUを含めたヨーロッパにも拡大する必要がある。そうしないと中国には勝てないことは明らかだからである。いずれそうなるだろう。だがここに来て不安定要素が出てきたロシアが米中対立の合間を縫って、領土拡張に動き出したのである。呉越同舟的連合を中露は組むかもしれない。現在の世界の対立構造からすると、いみじくもブッシュ大統領が言った、ならず者連合が形成されるかもしれない。それは中国・ロシア・イラン・北朝鮮という連合である。対してアメリカを基軸とする連合国は相当な数になると思われる。この対立は必然的に最終局面で第三次世界核戦争となる。それは避けられない運命である。そこには勝者というものはないと言われている。人間文明の崩壊だからである。


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