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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2021】

言葉狩りへの対応

2021-07-30
  昨今、言葉狩りが横行している。特に日本の野党は言葉尻を捉える手法で与党攻撃をする材料にしており、メディアはこれを格好のニュース種としている。これは議論の活性化を阻害するものであり、現代の「表現の自由」を否定するものである。別の視点で言えば、表現多様性否定であるということもできる。なぜそうした攻撃を受けた人が野党やメディアを法的に訴えないのかも不思議である(2.6「メディアによる「言葉狩り」に怒り」参照)。ノム思想では事後評価主義の考え方から、これらの攻撃者をできるだけ特定し、後の裁きの資料としておくべきであると考える。そして現時点での評価も併せて記録を残しておくべきだろう。

  最も最近の話題から取り上げよう。7月27日にギリシャの公営テレビERTがオリンピックの中継をしていた時のこと、司会者が韓国人選手に人種差別的な発言をしたとして、番組終了直後に局は司会者の契約を解除したと発表した(《国際》7.27)。この司会者は同日の番組で韓国人の卓球選手に対し「あの細い目でどのようにボールの動きを見ているのか理解できない」と発言したとされる。契約解除されたのはジャーナリストであり、番組の中で27日の卓球男子シングルス3回戦で韓国の鄭栄植選手がギリシャのパナヨティス・ギオニス選手を下した試合を報道。その際にカルミリスの冗句に周囲からも笑いが起こったという。ソーシャルメディアでは発言直後から批判が殺到。ERTはすぐに声明を出し、「人種差別的な発言は公共のテレビにふさわしくない」として契約解除を表明した。ネット上の批判にすぐに反応するという現代特有の現象が極端に表れたと言えるであろう。

  日本でも多くの言葉狩りの事例がある。2019年には萩生田文部科学大臣が、大学入試の英語の試験に関連して「身の丈に合った」という言葉を使った。これに対し、野党は反発し辞任を要求した。だが一般人の反応では問題視するほどの悪質なものではなかったし、萩生田大臣の物の考え方はおおむねまともであった。野党が言葉尻を捉えたのは、この発言が左翼政党の大きな支持団体である日教組の利害と反したためであったとされる。立憲民主党の安住国会対策委員長が記者からの質問に答えて「言語道断である」などと発言したが、感覚がズレているという他ない。同じころ、河野大臣が「私は雨男、大臣に就任してから3つ台風が来た。そのたびに自衛隊が災害復旧で出動し頑張ってくれている」と発言したところ、報道ステーションが速報として「河野大臣雨男発言」と大々的に報じた結果、河野大臣は国会で謝罪した。だが被災地である千葉市長は何の問題もないと語っており、マスコミの一部が言葉狩りに加担している事例となった。

  以上の事例は余りにも他愛のないジョークでさえ野党やメディアが目の敵のように揚げ足取りをしている例であるが、世界的に見るとイデオロギーに根差したものが多い。それを分類すると、①男女差別・②人種差別・③女性蔑視・④貧困蔑視・⑤言論抑圧・⑥自由抑圧・⑦弱者抑圧、というようなものが並ぶ。どれも現代の先進国のイデオロギーから発した発想によるものであり、そこには他者との協調・他者への寛容といった精神は見られない。すなわち西欧的個人主義から出てきたものが多いと思われる。本来ならば、他者の発言に対してはそれを凌駕する論理や道義で言い返すのが賢明であり、それによって相手を黙らせることが出来れば上々であり、相手を罵って名誉を汚し、地位までも奪うというのは強権国や独裁国のやることとほとんど同じである。

  日本には言葉遊びというものがあり、言葉を多様化するとともに尊重してきた。落語や狂言、俳句や和歌、と言った言葉の文化が最も発達した国である。その国において西洋の真似をした野党がダジャレも冗句も許さない世の中を作ってきたように思える。だが本来、最も重要視されなければならないのは議論の自由性であり、それには言葉の多様性や寛容性も含まれる。上記のギリシャの例で言えば、周りで笑いも起こったという冗談めいた司会者の発言を、1つのイデオロギーで放送局自体が弾劾してしまった。これは自分で自分の首を絞めたようなことであり、自縄自縛となるだろう。日本の番組の中にも同じような魔女狩りめいた言葉狩りを好むものがあり、どこかが問題としてやり玉を上げると他局も右に倣えで連鎖的に反応して取り上げる。これは既にメディアに真っ当な判断力がないことを示唆している。

  未来世界ではこのような悪質な「言葉狩り」と思われる事例について国民から一定の数の指摘があった場合、情報省がその録画なりから分析を行い、AIにも判断させて発言に悪意があったか、冗談の部類に入るのか、本当に差別に該当するものか、などを判断し、言葉狩りをした者に対して評価を下す。その評価が一定レベルを下回った場合には人格点を引き下げる。さらに悪質であった場合や言葉狩りを受けた人が名誉や地位に影響を受けた場合には「名誉棄損罪」として裁きに回されることもある。前回取り上げた森喜朗東京オリンピック組織委員長の場合は後者に該当するであろう。これはノム思想の中に「事後評価」という考え方があるためである。簡単に述べると、政府の政策決定等の組織の決定事項は、決定されるまでは議論が自由で何を言っても良いが、その後は批判は許されず、単に評価(世論調査・国民投票を含む)だけでその決定の良し悪しを判断するというものである。全てのことにこれは適用されるので、国民の間には決定までの過程で議論が沸騰することになり、政治などに関心が強まることが期待され、決定後の国論の分断という事態も防げる。それが全体主義の良い点である。

  言葉狩りを最初にした犯人を探り当てるのは大変なことであろうと思われる。まず誰かの発言を客観的に取り上げることは何の問題もない。その中の特定の言葉だけに悪質な評価を下した場合、それが批判的である場合は言葉狩りに相当する可能性がある。前述したように、それを国民の中の一定数以上が指摘した場合、それが言葉狩りに相当するかどうかが判断され、該当すると判断された場合、誰が(ネット上の意見を含む)、どの組織(メディア等)が最初に報道したか、さらにそれに追従した記事などが検索され、最初に報道した組織が最も大きな責任(組織格の減点)を負うことになり、追従者もその影響の大きさに応じた減点を被ることになる。こうした仕組みにより、言葉狩りという悪弊はこの世から放逐され、客観的で総括的な論評が最も高く評価されるようになるであろう。


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