【時事評論2021】
良い競争と悪い競争(3350文字)(1.31改訂・2.1追記)
2021-01-31
競争には良い競争と悪い競争がある。それは心がけ次第の話であるが、根底には人間の競争本能があるため、道徳だけでは解決できない。WHOのテドロス事務局長が1月29日、富裕国のワクチン買いだめを批判し、その「不道徳」を指摘したが、彼自身が中国に対して取った態度は不道徳極まりないものであった。世界は彼の言うことに耳を傾けないであろうし、そうする義理も無い。だが確かに「ワクチン争奪戦」とも言われている現状ではコロナ感染は収束しないであろうし、世界経済はさらに蟻地獄に落ち込んでいくだろう。そしてワクチンという武器を持った国々は勝利し、貧困国との格差はさらに拡大し、貧民層は塗炭の苦しみを味わうだろう。この世から競争を無くすためには、まず人間から競争心を削ぐことが第一に必要なことであるが、現代にはそれを成し遂げる雰囲気も環境もない。だが筆者はそれが可能であることを確信しており、具体的な手法を模索している。そしてそれは自分自身の経験も併せて考えるとかなり現実的であると考えている。
まず先に悪い競争を考えてみよう。その競争は生活のあらゆる面に表れており、また社会の仕組みそのものに組み込まれている。そしてそれが世界を覆い尽くしていることは今や常識となっており、それが原因の格差が富裕層と貧困層を生み出している。まず人間からその競争を見て見ることにしよう。人間は生まれるとすぐ乳を求める。それは生存本能から来るものであり、無意識の条件反射である。動物の場合、目がまだ見えなくても乳首のありかを探って辿り着く。それは多分匂いによるものなのであろうが、そのような研究がなされているかは知らない。人間の場合は母親が乳首を口に当てがってやるので赤ん坊は楽に乳を吸うことができる。幼児では、もし兄弟がいても齢が離れているので余り競争は起こらないが、2歳頃になると自我の芽生えがあるので、自分が主体的に行動することを求める。親が手出しすると怒る。この頃から年齢の近い兄弟の間ではあらゆることで争いが起きる。食べ物の量や順番で争うことが多い。遊び具の大小でさえ争いの元になるだろう。これらはほぼ生存本能から来ていると思って間違いない。
だが物心つくまでに適切な躾を行った場合には、幼年期に道徳心が芽生えてくる。これは習慣的なもの、あるいは褒められるという報酬獲得のためであって高尚な思考によって得られるものではない。つまり他の子をいじめれば叱られ、他の子に親切にすれば褒められるということに依って学習的に学ぶものである。中には言うことを聞かないすね者もいるであろうし、反って反抗する悪ガキもいるであろう。筆者の経験によれば、それは「育ち」という言葉で表される家庭環境の問題に拠るところが大きい。筆者の子(既に40歳に近いが)は大した反抗期もなく素直に育ったが、決して押し付け教育をしたつもりはない。ただハイハイの時期に、サイドボードに手を出して開けようとするのを、手を軽く叩いて「ダメ」と首を横に振りながら諭しただけである。記憶にある躾はそれだけであった。現在孫に対して、私と孫が同じ皿にフルグラ(グラノーラの一種)を私の方が多く入れて食べ、時々私から1つの小さな粒を与えて、「ありがとう!」と言うと、まだはっきり言えない口で「あとう」と返す。すると奇跡が起こる。孫の方から1粒を差し出してくれようとするのである。私は「ありがとう!」と喜びの表情でお礼を言い、頭をなでて上げる。翌日、今度は妻に対して、何も上げていないのにブドウとカステラのかけらを差し出したそうだ。
このような幼児(2歳半)の反応を観ていると、人は育てたように育つものだと思わされる。筆者はあいにく3歳まで9人兄弟の中で終戦直後の生活難の中で育てられたため、記憶にはないが食べ物に執着するところがある。だが理性がその欲望を抑えることができるため、意地汚いことはしない。だが面白いことに、宴会などで食事に先に手を出すのはいつも私であることに気付いている。「育ちは争えないもの」であるという格言を思い出す。人の多くは幼児期の時から競争に晒されている。それは学校にいくようになると成績の競争になり、大人になればより多くのカネを求めて良い就職口を探すことになる。中には不道徳を地で行くように、いかに多くの著名人と知り合いであるかを誇ったり、如何に多くの女と交わりを持ったかを自慢したりする者もいる。たとえ不道徳ではないにしろ、スポーツなどで1番になることに精進するあまり、ついにはオリンピックを夢見るスポーツ少年・少女も多い。大人もそれをけしかけているようにみえる。そうした社会全体の競争意識は、①金銭欲・②名誉欲・③権力欲、という形で表れている。誰もそれをおおっぴらには自慢しないものだが、態度にそれが表れる。国家も同様に、①経済力・②軍事力・③名誉欲のために動く。現代は国家の格を示す指標としてGDPや領土の広さや人口規模が使われるため、国家は人口減少を嘆くことになる。だが果たしてこれらの常識はまともな人間が求める理性の結果として出てきたものなのであろうか。
一方、良いと思われる競争もある。たとえば読書競争などが行われれば、人は争って読書に耽り、それは人間をより知的に成長させるであろう。筆者は凡人であるため、幼少期や少年期は無邪気に遊び、勉学の競争の面白さを見出したのはやっと中学生になってからであった。だがそれは知的欲求から出たものではなく、単に成績競争というものに巻き込まれたからに過ぎない。だが目標が与えられたことで努力するということを覚えた。これは必ずしもベストではないが良い競争の一例である。他にもいくらでも良い競争を作り出すことはできるはずだが、世の中には意外に少ない。それは善行を推奨し、表彰することが少ないためであろう。たとえば筆者は雑草取りを推奨しているが、これを子どもらに競争させたら街中がたちどころに綺麗になるであろう。また軍隊並みに、衣服の畳み方・顔を洗い方・掃除の仕方、などを競争させたならば、全ての人が自分の生活を整えるようになるであろう。あいにく筆者は家庭でも学校でもそれらを習わなかったために、特に衣服の畳み方を自分で習得したのは65歳になってからであった。現在先進国は2050年までのグリーンリカバリー(脱炭素化)を競争しているように見える。それはそれで意義があるが、その動機はやはり技術開発に乗り遅れることで競争力が無くなることを恐れているからである。だが人口の最も多いアジア・アフリカ地域でもこれが起こらなければ実効性は小さい。根本的に社会・世界を変えない限り、現在の競争原理の下では脱炭素化は不可能だと筆者は考える。
未来社会では悪い競争を否定し、良い競争をゲーム理論に則って推奨する。悪い競争とは、①経済成長競争・②人口増加競争・③軍備増強競争、等を指す。経済成長競争は個人にも当てはまり、成金は決して評価されない。業績や地位に応じた報酬は当然のことであるが、宝くじや一獲千金によって豊かになることは不可能になる。すなわち全体主義(社会主義)に基づく社会であることにより、個人の年収に限度を定めているからである。それ以上に儲けた人が居た場合、寄付によって人格点を向上させることができる。すなわち名誉が与えられる。未来社会では人格点・社格点・国格点が最大で唯一の価値基準となる。人口増加は悪と見做される。国家の人口減は国家格の付与によって名誉となるだろう。未来世界では各国の軍備というものは無くなるので軍備増強競争は無い。これらの仕組みは人格点・組織格点・国格点という指標を中心とした格上げ競争に転じさせるところに秘訣がある。前述した幼児期に例えれば、褒められることで人に喜びと報酬系(脳神経系の一種)の満足がもたらされるように、人も社会も世界も格を上げることを最大の喜び・名誉とする時代が来るのである。それは実現してみれば当たり前のことのように思われることである。決して夢や希望、あるいは理想や夢想ではなく、ゲーム理論で実現させられる現実なのである。要は価値をどこに置くかで全てが決まるのである。