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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

台湾

1900年以前

  • 1895年:台湾は天津条約で日本領となる/台湾島・澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾になった。これにより台湾は発展の機会が与えられた。(2020.10.15記)
     
  • 1860年:北京条約/天津条約を批准しなかった清朝(咸豊帝)が、イギリス(10月24日)・フランス(10月25日)との間に締結させられた。天津条約に加えて、さらに天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島南端の英国への割譲が追加された。またロシアは仲介したことを口実に、清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた(11月14日)。
  • 1858年:天津条約/アロー戦争に敗北した清朝はロシアと1858年6月13日に締結、その後6月18日にアメリカと、さらに6月26日にイギリス、6月27日にフランスと締結。これらを一括して天津条約とする。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。だが清国は英仏軍が引き上げると清廷で条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京をも占領したため、ロシアの仲介で1860年の北京条約が締結された。したがって、1858年の天津条約は1860年まで履行されなかった。
  • 1858年5月28日:ロシアとアイグン条約締結/ロシア帝国(ニコライ2世)が清帝国(咸豊帝)に対して武力の恫喝によりが、中国北東部・アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において、清国全権・奕山に認めさせた条約。だが清の皇帝はこれを認めず、反故にした。
  • 1856年10月8日ー1860年10月25日:清とイギリス・フランス連合軍の間でアロー戦争が勃発/1856年10月8日に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した。広州領事であったハリー・パークスの理不尽で強行な抗議に対し、清の両広総督・欽差大臣である葉名琛はろくな調査を行わず、パークスの行動を見た清国駐在英国全権使節兼香港総督ジョン・ボーリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。イギリス首相パーマストン子爵はフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスはフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。1857年12月29日、英仏連合軍は広州を占領して葉名琛を捕らえた。翌年2月にはイギリス・フランス・ロシア・アメリカの全権大使連名により北京政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の返答に不満を持った連合軍は再び北上して天津を制圧し、ここで天津条約を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。
  • 1854年:広州入城問題で清国内の混乱/広州の城内に外国人を入れるかどうかで欽差大臣と清国中央との意思統一がされず、朝令暮改が繰り返された。汚職が蔓延し、旧態依然とした既存の徴税機構に代わり、公正公平な徴税機構が求められた。
  • 1844年10月:清とフランスは黄埔(こうほ)条約を締結/アメリカが漁夫の利を得たのを見て、フランスもまた不平等条約を清に迫った。これに対しても清は止む無く応じざるを得なかった。不平等条約であるが、フランス人が中国で起こした刑事犯罪はフランスの法律で裁くことを明確に規定している点では、治外法権を一歩進めたものであった。フランスはそれまで中国に対してはキリスト教布教に重きを置いていたのを、イギリスのアヘン戦争に刺激を受けて、経済的進出に転換し、19世紀後半のナポレオン3世の第二帝政になると、インドシナ出兵と併せて中国植民地化への参加を明確にし、アロー戦争(第2次アヘン戦争)を起こすことになる。
  • 1844年7月3日:清とアメリカが望厦条約(ぼうかじょうやく)締結/アヘン戦争でイギリス帝国に敗北した清は、イギリスと南京条約、虎門寨追加条約を結んだが、その内容は関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であった。アメリカはこれに倣って清との修好通商条約締結を迫り、清は止む無くこれに応じた。アメリカは図々しくも不平等を南京条約より一歩進めている。この後10月に、清はフランスとも黄埔条約を結び、中国への列強進出は本格化していった。
  • 1842年8月29日:清と英国の間で南京条約締結/アヘン戦争がイギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。また英国への多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められた。また、翌年1843年の虎門寨(こもんさい)追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。これらは清にとって極端な不平等条約となった。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時の欽差大臣耆英(きえい)が長江河口以南のアヘン貿易を非公式に黙認した。これがアロー戦争の原因ともなる。
  • 1839年9月4日ー1842年8月29日:アヘン戦争/清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。イギリス(ヴィクトリア女王)は、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清(道光帝)がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。清の取った行動は当然のことである。アヘン戦争後、広東(広州)内外の住民の間で外国人排斥運動が盛んとなった。
  • 1689年:ロシアとのネルチンスク条約/康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。
     
  • 1662年:鄭成功が東寧王国を設立/17世紀まで台湾には原住民が主に居住していた。17世紀以降、大航海時代に入ってオランダ・スペインが侵入し、そのあと1662年、中国大陸から逃れてきた明朝再興派の支持者である鄭成功がオランダを追放し、同島初の政治的実体である東寧王国を設立した。

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