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日本

1900年以前

1889(M22)年2月11日:「大日本帝国憲法」公布

 
1872(M5)年:太陽暦を導入/明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。

 
1871年:「円」の誕生

 
1870(M3)年2月3日:「大教宣布の詔(みことのり)」発布/「神道の国教化(国家神道)」と「天皇の絶対化」を推し進めた。一方、岩倉・大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の涵養に尽くした。

 
1868年(M1)10月23日(旧暦:明治元年9月8日):明治時代/1912年(明治45年)7月30日まで続いた元号とその時代。明治天皇・睦仁(むつひと)(第122代)の在位期間。


1868年1月27日-30日(旧暦:慶応3年12月9日):鳥羽伏見の戦い/戊辰戦争の初戦となった。徳川幕府軍1万に対し、薩摩を中心とする新政府軍4千が鉄砲・刀などを用いて戦った。NHK番組では7日間としている。鳥羽街道と伏見で戦いが行われた。徳川軍は大阪城を出て京都に近い伏見で激突。徳川側は人数は勝ったが武器が旧式で士気が低かったため惨敗とされていたが、実は新式の銃を備えた一軍(伝習隊:滝川充太郎はこの士官であった)もあり、一時は盛り返していた。父親の滝川具挙の失策が徳川軍を敗退させたという。3日目に錦旗(後醍醐天皇が使って以来500年間使われていなかった)が新政府軍に掲げられたことで幕府軍は戦意を喪失した。錦旗は岩倉のアイデアであった。この錦旗の効果は抜群で、日和見藩は次々と政府軍に付いた。慶喜は敗戦の報を受けたが、玉砕の檄を飛ばし、諸士感涙したという。6日目に徳川慶喜は城を出て、開林丸で江戸に逃れ、兵は戦意を完全に喪失した。慶喜は敵前逃亡したのである。開陽丸は艦長の榎本武揚不在のため澤太郎左衛門が指揮を命じられた。彼は慶喜に失望したと書いている。8日に出港したが、湾内を回遊した。9日に大阪城は陥落。以後1年5ヵ月に亘る戊辰戦争へと繋がっていく。


1868年1月19日(旧暦:慶応3年12月25日):江戸薩摩藩邸焼き討ち事件/薩摩藩士による強盗・放火に対し、江戸の幕臣らが怒って大砲による薩摩藩邸攻撃となった。これは徳川と薩摩が戦闘状態に入ったことを意味する。大阪の徳川慶喜に使いを送り、薩摩討伐を朝廷に進言すると進言。これを慶喜は認めた。慶応4年1月2日、大阪城から京へ徳川軍1万が出陣。御所内の公家は混乱の極みに達したという。新政府の元徳川御三家の土佐藩の山内容堂・尾張藩の徳川慶勝・越前藩の松平春嶽は薩摩と対立。西郷隆盛は失意し、暇乞いをしたという。新政府の崩壊を食い止めたのは大久保利通であった。


 
1868年1月3日(旧暦:慶応3年12月9日):王政復古の大号令/徳川慶喜の大政奉還を受け、明治天皇より「王政復古の大号令」と呼ばれる天皇親政宣言が発せられた。これは薩摩藩によるクーデターとの観方もある。これにより徳川慶喜は新政府から外された。これを主導したのは、薩摩藩の西郷吉之助・薩摩藩の大久保一蔵・公家の岩倉具視である。だが1ヵ月も経たずに兵糧攻めで窮地に陥り、慶喜を新政府に加えることとした。

 
1867年11月9日(旧暦:慶応3年10月14日):大政奉還/江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し翌15日に天皇が奏上を勅許した事。徳川幕府は264年の歴史を閉じた。


1866年:第二次長州征伐/失敗した。


1866年:薩長同盟


1860年:桜田門外の変/大老井伊直弼が桜田門で待ち伏せしていた一味に暗殺される。

 
1853(嘉永6)年代-1870(M12)年代:明治維新/江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。

 
1853(嘉永6)年ー1869(M2)年:幕末/黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を指す。

 
1603(慶長8)年-1867(慶応3):江戸幕府/徳川家康が征夷大将軍に任官し、江戸(現・東京都)を本拠として創設した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年とされる。

 
1573(天正1)年-1603(慶長8)年:安土桃山時代/織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代のことを指す。

 
1493(明応2)年ー1590(天正18)年:戦国時代/やはり室町時代と重なる。15世紀末から16世紀末にかけて、室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭したことにより、戦乱が頻発した時代の名称。

 
1336(建武3)年ー1392(明徳3)年:南北朝時代/室町時代の中に含まれる。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った時期を指す。

 
1336(建武3)年ー1573(天正1)年:室町時代

 
1333(元弘3・正慶2)年ー1336(建武3)年:建武の新政

 
1185(文治1)年ー1333(元弘3・正慶2)年:鎌倉時代


1173年5月21日(グレゴリオ暦)(承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日):親鸞誕生( - 1263年1月16日)。親鸞は聖徳太子を尊崇していた。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。救世観音が聖徳太子として世に現れたと広めた。


1069(延久1)年:「聖徳太子絵伝」が太子信仰を広める


 
797(延暦16)年:『続日本紀』(しょくにほんぎ)編纂/菅野真道らによって797年(延暦16年)に完成。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料で、編年体、漢文表記である。

 
794(延暦13)年ー1185(文治1)年:平安時代


752(天平勝宝4年):東大寺大仏開眼供養/中国・朝鮮・ベトナムからの参列者も舞いを披露したという。

 
720(養老4)年:『日本書紀』編纂/奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、720年(養老4年)に完成。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。現存するものは全て写本である。

 
712(和銅5)年:『古事記』編纂/712年(和銅5年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。上・中・下の3巻。内容は天地開闢 (日本神話)から推古天皇までの記事を記述する。

 
710(和銅3)年ー794(延暦13)年:奈良時代


670頃~710年頃:白鳳時代/多くの女性貴族らが太子信仰を持つ。それは聖徳太子が経典の理解の中に、女性も成仏できると説いたからであるとも言われる。宮中の橘三千代(女官:5人の天皇に仕えたとされる)は奈良時代に、現在国宝に指定されている薬師如来像を祀る西円堂(国宝)を寄進した。橘夫人は法隆寺にも「伝橘夫人念持仏」(国宝)を寄進している。娘(光明皇后)を聖武天皇に嫁がせることに成功し、絶大な権力を持ったとされる。法隆寺は三千代の賛同を得るために、聖徳太子信仰を旗印にしたという説もある。光明皇后は聖武天皇に疫病祓いとして東大寺大仏や国分寺の建立を勧めたという。


670:落雷により法隆寺伽藍焼失/日本書紀によると、現在の若草伽藍跡(緑地)にあった聖徳太子が創建した法隆寺伽藍が落雷で焼失した。1968(S43)年の調査で焼けた瓦などが見つかっている。これから7年後から西院伽藍の再建が始まったとされる。

 
645(大化1)年:「大化の改新」/皇極天皇4年(645年)6月14日の乙巳の変に始まる一連の国政改革のことを指す。狭義には大化年間(645年ー650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。改革そのものは、天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。豪族中心の政治から天皇中心の政治へと変わっていった。この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。また「大化」は日本最初の元号である。


643年:聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおうじ)の一族が自害/皇位継承の争いに巻き込まれて蘇我入鹿(そがのいるか)によって自害に追い込まれたとされる。


622年:聖徳太子没する

 
607年:聖徳太子が法隆寺を創建/最初の法隆寺伽藍は若草伽藍跡にあったが、焼失し、西院伽藍に飛鳥時代に再建された金堂と五重塔、それを取り巻く回廊がある。これらは世界最古の木造建築である。内部の柱や梁には後から加えられた補強のためのものがある。金堂にある釈迦如来は太子をモデルにしていると言われる。光背に「621年聖徳太子の母親が亡くなり、翌年には太子夫婦が揃って病に倒れた。病に倒れた太子の回復を願って釈迦像を作ることになった。しかしその途中で太子が亡くなったため、成仏を願って像を完成させた」とある。「尺寸王身」とあり、同寸で作られたとされる(推定178cm)。500m離れて太子の住んだ斑鳩の宮があった。そこには現在夢殿がある。100年後に上宮王院が建てられた際、記念品を収めた。救世観音(立像)が最も重要なもの(国宝)とされる。一木作りである。聖徳太子が海外の音楽・楽器を取り入れて雅楽に昇華させた。国宝百済観音は日本で作られ、漆を使った彩色が施されている。五重塔の心柱に使われた木材は594年に伐採されたものだと年輪から分かっている。若草伽藍に残された木材を転用したとも考えられている。


592年ー710年:飛鳥時代/645(大化1)年に元号が始まる。


574年:聖徳太子誕生(-622)/厩戸王(うまやとのおう)・厩戸皇子(うまやとのおうじ)とも言う。

 
3世紀中頃ー7世紀頃:古墳時代

 
前4世紀ー後3世紀中頃:弥生時代

 
前14000年頃ー前10世紀:縄文時代

 
– 紀元前14000年頃:旧石器時代


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