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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

*007「各国主権の放棄と思想統一」(12992字)

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*007.「各国主権の放棄と思想統一」(2020.4.18起筆・終筆/13045文字)   (完)
 
  主権というものは一般的に国家の独立した決定権を指し、広義には①国家に特有な統治体制選択権・②国家権力の統治権・③国家の独立権、を指すが、外交的に観た場合には、他国からの干渉を受けずに国家が独立して政治・政策を決定できるということを指す。今日ではもっぱら対外的関係においてこの言葉が使われることから、最初に示した「国家の独立した決定権」という定義が本項では最も適切であろうと考える。
  だが筆者はこれを敢えて個人にも当てはめてみたい。なぜならばそこには非常に共通した本質があるからであり、近代思想は個人の主権を基本的人権と表現し、国家の主権を主権と呼んで区別したに過ぎないように思えるからである。そこには根源的な思想の共通性がある。
 
 
  ノム思想では世界が連邦という単一主権をもつ政治政体に統一されなければならないと考えているため、同じ性格を持つ個人主権に関しても世界的に統一されなければならないと考える。だが現実には現在の各国には独立した国家主権と個人主権があり、それを簡単に統一させることは至難の業であり、これが実現するためには、3代に亘る教育が必要であり、恐らく90年以上の年月が必要であろうと思われる。その際に人間の持つ思想的自由性を保ったままでこの教育を行っていくことは諸々の障害をもたらすことから、国家主権が統一されて連邦主権が確立された際には、教育は一つの思想の下に行われなければ混乱が生じることになるだろう。現代の日本の教育が戦争の勝利者であり戦後の支配者であったアメリカの民主主義思想の下に行われているのと同じことである。未来に採用される思想はイデオロギー(固定観念)であってはならず、思考の自由性を保証しながらも思考の科学的方向性を示すノム思想が最も適切であると考えられる。
 
  個人主権とはどういうものを指すのだろうか。筆者は個人が独立して物事を選択・決定できる権利だと考え、それは近代思想に於ける「人権」に含まれている権利の一つだとした。たとえば思想の自由・信教の自由・表現の自由・居住の自由などがこれに該当するだろう。そもそも近代思想が誕生する以前には、人権という思想は無かった。人権思想の元祖と言われる1215年発布のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)でさえも、それは封建貴族たちの要求に屈して国王ジョンがなした譲歩の約束文書であって、思想的なものではなかった。だが、エドワード・コーク卿(1552-1634年)がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」・「代表なければ課税なし」・「抵抗権」といった原理の根拠としたことから人権思想が萌芽し始めたのである。ドイツに起った16世紀の宗教改革を経て、国家の国教に限らない信教の自由の確立も人権思想に大きな進展を与えた(№506「基本的人権と人権主義」参照)。そしてこれらの思想は個人主義思想に立っていると考える。

  根源的に考えれば、人は思惟の自由を持つ(№106「思考の評価」・№662「記憶と思考」参照)。それは大脳を進化させた人間のみが持つものであり、思考・思索・思惟は段階的表現ではあるがどれも同じものである(№484「脳の進化」参照。動物には選択の判断はあるが、高度な思考は不可能である(№732「選択原理」参照)人間はこの思惟に依って自らの判断を優先するようになるが、それは生存本能を持つ動物として当然のことであった(№216「ヒトと国家の自己防衛本能」・№248「人の本能」・№332「生物本能」参照)。だが人が集落を形成するにつれ、人の持つ自由は社会的掟(法)と相克を起こし、王建制度などの下では絶対権力が力関係から人間の自由な判断・行動を制約するようになっていく。そして近代に至るまでこのような状況が続くことになるが、近代では人間の思惟から生まれた反体制的な権利思想が力を持つようになり、それは独立戦争最中のアメリカにおいて1776年のバージニア権利章典として明文化された。その第一条は「人は生まれながらにして自由かつ独立であり、一定の生来の権利を有する。これらの権利は、人民が社会状態に入るにあたり、いかなる契約によっても、人民の子孫から奪うことのできないものである。かかる権利とは、財産を取得・所有し、幸福と安全とを追求する手段を伴って生命と自由を享受する権利である」というものである。これは「自然法」と呼ばれる新しい考え方に立っており、天賦(てんぷ)の権利自然権)を主張したところに最大の特徴がある。いわば人が自由人であった古代に先祖返りしたようなものであった。この考え方はフランス革命(1789–1799年)にも引き継がれ、その際に出されたフランス人権宣言標語とされる「自由・平等・友愛」に象徴されるように、再び人の自由に焦点が当てられ始めた(№256「改善・改革・変革・革命」・№305「自由と規制」参照)。だが18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し、法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となっていった。この頃は資本主義が急速に発展した時期でもあり、そのことが思想にも反映されたのである。そしてこの頃から王制・専制・独裁という全体主義から個人主義が芽生えたとも観ることができるだろう。
 
  一方、資本主義は諸々の社会的矛盾を生みだした。自由主義理念に基づく自由放任経済は著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらしたために、無産階級の人々にとっては「自由」は空しい言葉ともなった。その結果20世紀に入ると、ドイツなどでは社会的な権利を保障するためヴァイマール憲法が誕生し、その流れをくむ自由主義諸国の憲法が次々に成立した。しかし労働者階級の困窮が激しかったロシアでは革命(1905-1917)が起り、マルキシズムに基づくソヴィエト連邦が誕生して社会主義に基づく憲法もできた。
  ソヴィエト連邦時代の3つの憲法は、言論の自由、結社の自由、信教の自由などの政治的権利を宣言し、更に一連の経済的権利、社会的権利、全市民の義務などを規定し、議会は定期的な選挙で選出されるとした点では共通していたが、実際には一党独裁の道を歩み、人々は言論だけでなく、あらゆる弾圧下に置かれた。人々の生活に改善は見られたが、その精神的な抑圧と資本主義との経済競争に敗北したことからソ連を崩壊に導くことになった。
 
  以上の歴史的経緯を振り返ると、人は最初自由意志という主権(自己決定権)を持っていたのでこれを天賦の権利と観ることはできるかもしれない。だがそれは国家から保証されるものではなく、自ら競争の中で勝ち取る性質のものであった。それが社会が形成されるにつれて制限を受け始め、特に君主制の下で制限されるようになり、近代に至って人権思想の萌芽(=個人主義への移行)によって社会制度として定められることになった。だが逆に近代に至って個人の自由と社会の規制の間に存在する矛盾が拡大し、自由主義思想と社会主義思想に分断され、その後の世界に深刻な対立を生み出した。現在は自由主義思想が圧倒的に優勢であるが、独裁主義を歩む中国の巧みな経済支配が世界に及ぶにつれ、最終的に自由主義陣営と独裁主義陣営の最終戦争となるであろう(№110「地球の水と寒冷化、そして最終戦争」・№217「集団帰属本能による最終戦争の解析」・№831「最終戦争(第三次世界大戦)の経緯」参照
 
  権利というもの自体を考える時、これが天賦のものなのかそれとも社会が付与するものなのかを吟味することは重要である。この権利が問題なく主張できたのは古代だけであり、君主制の下では権利は制約を受けた。そしてやっと近代に至って社会が付与するものとしての位置付けが確立し、今日ではほとんどの国でこの権利は保護されるようになった。これを基本的人権と称するが、これは生まれた時から人として保護されるべき権利であり、その意味で筆者は基本的人権を天賦の権利と見做す
  未来社会ではこの考え方に対して天賦の権利という概念は神という絶対者を前提にしていることから現代では意味を失っていると考え、権利というものは義務を果たした者に社会が与えるものとして位置付けられることになるであろう。つまり生まれたての子には権利はまだ生じていないという考えることから、今日の基本的人権のような天賦の権利としての主張は認めない(№504「義務と権利と責任」・№784「自立性と自己変革」参照)
  人権に関する議論は以上で終わらせることにする。つぎに議論するのは国家の主権であるが、本来はこれが主要なテーマであるが、議論は対外主権に絞ることにする。
 
  国家の対外主権とは、他国からの干渉や圧力に屈せずに自国の政策などの自主決定権を指すが、実際には韓国が中国の圧力を受けて‘3つのNO’をアメリカと日本に表明したように、力関係で大きな影響を受ける。この事例からも分かるように、外交では力の強い方が優位な立場に立って相手国に干渉や圧力を加えるのが常である。主権というものは言ってみれば形の上では存在するが、実際は力関係で影響を受ける。日本の太平洋戦争前の出来事では三国干渉が有名であり、さらにアメリカの対日石油禁輸措置も相まって日本は無謀とでも言うしかない大国アメリカに対する開戦を辞さなかった。これは日本が主権を最大限主張した世界史に稀に見る事例であり、負けることが分かっていても矜持を守ろうとする日本の心がよく表れている(№541「内心・矜持・節操」参照)。現代では中国が各国に「一つの中国」原則を押し付け、経済的理由から各国はアメリカ・日本を含めてこれを受け入れざるを得ない状況に置かれている。台湾という事実上の独立国家に対して主権を認めず、中国に台湾の主権を与えていることは矛盾・不条理の極みであり、このようなことが生じるのも世界が決して国家の主権を認めているのではなく、対外主権の強弱に支配されていることを示している。
 
  イギリスは難民・移民による経済浸食からイギリス人を守るという名目でEUからの離脱を2016年6月に国民投票で決めた。だがその過程で離脱派が主張していたEUへの分担金の額が実際にははるかに少ないことが2017年12月に分かり、イギリス国民の中で離脱を決断した多くの人に騙されたとの挫折感が出ている。まして離脱のために6兆円以上の負担を強いられるということを知った国民の間には動揺が起きている。国策を決めるにもこのような欺瞞的プロパガンダが影響を与えて国民の意志を変えてしまうことから、国民投票はかなり危険な賭けであることを覚悟しなければならないだろう(№049「議論の評価と世論調査・国民投票の在り方」・№944「愚民と賢民」参照。イギリスの経済問題は自国そのものの中にあるのであり、それをEUとの経済連携に責任を押し付けるのは国民が愚衆になりつつある兆候と言えるだろう。筆者はこの問題の根本的原因はEUのイデオロギー(自由・平等・友愛)的発想による難民救済策、すなわち難民流入を否定しなかったことにあると考えており、EUが道理的・合理的判断を下して制限をしていれば、各国の反難民傾向とEUの分断は無かったであろうと考えている(№491「道理主義の諸相」参照)。2020年にヨーロッパに発生した中国由来の新型コロナウイスル禍は、いとも簡単にEUの基本理念である「人の移動の自由」を排除してしまった。ならばEUがもっと早くからこの理念を現実に合わせて柔軟に運用していたならば、イギリスの離脱の問題は避けられたかもしれず、また欧州各国の右派台頭も無かったかもしれない。すなわち今回のEUの危機はEU自身が招いたものである。それは現実よりもイデオロギー(「人の移動の自由」)を重視したことによってもたらされた。EUの主権共有の思想とイギリスの主権回復の対立は、未来の世界統合にも同じような問題を生じさせる可能性があることを示しており、個と全体のどちらの主権を優先するかという根源的問題を孕(はら)んでいる(№661「個人主義と全体主義」・№690「個と全の存在目的」・№933「個と集団」参照)
 
  台湾と中国は尖閣諸島を1970年代になっていきなり自国領土と主張し始めた。これはその周辺に石油などの資源が発見されたためで、しかもその調査は国連の海底調査委員会によって行われたものである。根拠の無い主張によって中国は尖閣諸島を領土と勝手に決めつけたが、中国や台湾が1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していた。中国は2010年3月、南シナ海に関して戴秉国国務委員が「南シナ海は中国の核心的利益に属する」と、米政府スタインバーグ国務副長官へ伝えた。同年9月7日には日本の巡視船「みずき」が、中国籍の不審船を発見し日本領海からの退去を命じたが、それを無視して漁船は違法操業を続行、逃走時に巡視船「よなくに」と「みずき」に衝突させて2隻を破損させた。この時の様子を海上保安官が撮影していたが、その動画(44分間)がYouTube上に流出したことで、世界的に中国の傍若無人振りが知れ渡った。だが当時は菅直人首相による民主党弱体政権であったため、当初は船長起訴に向けて積極的であったが、中国政府は即座に複数の報復措置を矢継ぎ早に繰り出した。①「日本との閣僚級の往来停止」・②「航空路線増便の交渉中止」・③「石炭関係会議の延期」・④「日本への中国人観光団の規模縮小」・⑤「在中国トヨタの販売促進費用を賄賂と断定し罰金を科すと決定」・⑥「21日より予定されていた日本人大学生の上海万博招致の中止」・⑦「中国本土にいたフジタの社員4人の身柄を拘束」・⑧「レアアースの日本への輸出を事実上停止」がその代表的なものである。中国政府系シンクタンクの社会科学院日本研究所の専門家が、日本に対する圧力のかけ方として、円資産を買い増しして円高誘導すればいいとまで主張した。このような国家挙げての執拗な報復に菅内閣は狼狽して対応は軟弱に転じ、9月24日には那覇地方検察庁が船長の勾留延長期限が5日残っている時点で、「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮して、船長を処分保留で釈放する」と発表し、9月25日未明に中国のチャーター機で中国へと送還された。送還された船長は英雄扱いをされ、地元福建省泉州市の道徳模範に選ばれたという(だがその直後拘留され、その後の消息は不明)。
  この経過の中で中国側が丹羽宇一郎・駐中国大使を夜中(午前0時)も含めて5度も呼び出したことに対して、「外交的には極めて無礼だ」との声が上がった。だが弱腰の日本としてはひたすら自己主張を避けて粛々と中国の要求に従ったのである。本来ならば国内法によって、少なくとも船長を「外国人漁業の規制に関する法律違反」・「領海等における外国船舶の航行に関する法律違反」・「逃走した場合は漁業法違反(立入検査忌避罪)」・「公務執行妨害」・「器物損壊」によって逮捕し、損害賠償請求するのが主権国家の取るべき措置であるが、現在の日本にそこまでの力はなく、また現実主義的である日本の姿勢としては落しどころを探った上での幕引きを図ることに終始した。戦前の日本では考えられないほど情けない対応であるが、経済戦争や武力戦争を避けるためには止むを得ない最善の策であったと言えよう。だがこの経験を機に、中国に対してはあらゆる面で警戒を怠らないようにしなければならず、もしこの屈辱を忘れて中国に媚びる姿勢を見せたならば、それこそ亡国政策となるだろう。この世界に知られた出来事においても、国家主権というものは力関係という現実の前には脆いものであることが証明されている。
 
  以上に挙げた個人と国家の主権に関する事例から、その共通項を探ってみると、個人や国家に対して与えられる権利という概念がある。現代で言うと個人の権利は国家が与えるものであり、国家の権利は国際社会が与えるという構図になる。そしてその権利は相対的なものであり、絶対的なものは存在しないという点でも共通している。ある人に与えられた権利は他の人には与えられないことも多い。たとえば自分の家に入る権利は持ち主にあるが、他の人には入る権利はなく、暗黙の了解があるか、または許可を取ってしか立ち入ることはできない。ごく当然のことである。ある土地はある時代にはA国の領土であったが、後の時代にB国の領土になったというのもごく普通にあることで、領土について国家はしばしば「固有の領土」という言い方をするが、決して固有の領土など存在したことはない。〇〇帝国というものが現在無いことからもそれは明らかである。中国が尖閣諸島を「南シナ海は中国の核心的利益に属する」と表現するのと、「尖閣諸島は中国固有の領土である」と主張するのとでは、言葉は違っていても同じことを言っているのであり、領土侵略観に基づいていて許容できるものではない。日本は「尖閣に領土問題は存在しない」と婉曲的言い方をするが、この方が現実的であって考え方も正しい。だがそれは現実に問題となっている事柄を無視しているという意味で卑怯な言い逃れである。正々堂々と正論を主張すれば良い。

  主権というものが自己中心的発想から出ていると言う点でも共通している(№524「自己意識」・№859「自己正当化と自己矛盾」参照)。そこには自己主張のみがあり、他に対する配慮というものがない。それ故主権の主張は争いや論争を生み出す。全くもってよろしくないものである。権利という言葉も同様であることから、権利の主張は物事をとげとげしくするだけで、しばしば係争や暴力、果ては殺人の原因になりかねない。もっと全体からみた道理というもので主張をすれば、それほどとげとげしくはならないであろう(№329「道理の価値」・№491「道理主義の諸相」・№551「法治主義と道治主義」・№792「真社会主義と道理主義の判例」参照
 
  では未来社会の権利や主権というものはどう考えられるようになるのだろうか。個人の権利については既に上記したように、人間は社会的動物であるから、社会から認められて初めて権利を得ることができる。そしてその権利は義務を果たしてこそ得られるものである。そのため生まれたての赤児には権利は存在しない。少なくとも数週間か数ヵ月経って生存していれば、一応社会の存在として認めることはできるだろう。そしてその赤児が家族や周囲の人々にとって有意義な存在であれば、そこで初めて人格というものが評価され、最小限の権利が与えられるであろう。すなわち生存権である。そして幼少のころになると少しは家の手伝いとかができるようになり、それに応じて人格点が増していく(№507「人格点制度」参照)。学校に入るようになると勉学の程度や貢献度に応じて人格点に差が生じる(№280「新差別(格差)主義」参照)。人格点に応じて権利も増していき、良い意味での階級差も出来てくる。それは社会をピラミッド構造にすることで安定性を増すことに繋がる(№437「未来社会の階層構造」参照)。昔の社会はそのような社会であり非常に安定していたが、その階級は生まれつき決まっていたことが多く、努力というものがそれほど大きく評価されていたわけではない。未来社会は出自にはそれほど関係なく、誰でも努力して善行を積めば昇進できる。だが条件があり、心が正しく、客観的視点を持つ人物が最良とされる(№813「未来社会の理想的人間像」参照)。そしてそのような善人からさらに賢人が選ばれ、この賢人があらゆる社会の部門のリーダーとして統率していくことになる(№478「賢人とは?」参照)。であるから政治家・弁護士・医師などの現代のエリートは、未来社会では頭脳の良さではなく、人格の良さで選抜されることになる(№732「選択原理」・№836「性格と志向と職業選択」参照)。特に政治家は社会への最大の貢献者とならなければならないことから、幼少の頃から選別を行って本当の意味でのエリートとして社会が育てることになる(№358「衆愚政治と賢人政治」参照)
 
  未来社会では独立した主権国家は無い。世界は連邦という単一組織に統一され、現在の国家は地域国家として残存することになるが、主権は失う。そのため通貨・度量衡・暦(これは各国独自のものを併用することは可能)は統一される。法制度や言語は地域国家の歴史や現状を踏まえて柔軟に扱われることになる。歴史については各国でその評価は独自に解釈することはできるが、ノム史観による統一歴史は編纂されることになるだろう(№573「ノム史観」参照)。それをネット上で検索することのできる世界ネット知財である「ノムペディア」が作成され、誰でも何処からでも何語でもそれを検索可能になる(№585「ノムペディアの提唱」参照)。ただしネット使用には人格に応じた制限があり、それを実現するために「ノムメディア」という情報システムが作られる(№762「ノムメディアの提唱」参照)。未来社会についてはいろいろ他にも述べたいことはあるが、それをイメージすることのできる項をもうけているのでそちらを参照していただきたい(№120「未来社会の想像図」参照)
  主権を持つ国家を無くし、武力を世界各国から集められた賢人が集まる連邦軍が担うことで、各国には武器というものも無くなり、世界から武力紛争や戦争が無くなることになる(№588「未来社会の軍事」参照)。それは人類が永い間夢見てきたことであるが、主権を無くすことでそれは可能になるのである(№067「戦争論」・№188「未来社会の実現の条件」参照)
 
  各国が主権を放棄し、それを連邦政府に一旦移譲した上で、再度主権の一部を連邦から移管されるという手続きが取られることになる。そのような状況で具体的にどのような権利が連邦・諸国・連邦民に属するのかを述べておこう。
 
  1.連邦は軍力と国家・個人(世界民)の制裁権を持つ。これが最も重要な要(かなめ)であり、人間と国家の自由を制限する上で肝要な権利であり、その根拠は世界民の支持にある。つまりこの権利は世界民から委嘱されて得るものである。世界民が支持しないならばその根拠を失う。個人が反社会的行動を取った場合、それを国家が正当に対処しなかったならば連邦が代わりに制裁を科すことができる。一部の民が反連邦的行動を取った場合も同様である。国家が反連邦的行動を取った場合、国家政府からあらゆる権限を取り上げ、選挙のやり直し・連邦による臨時政府の樹立・国家の消滅を含むあらゆる制裁権を持つ。ただし、そのような非常措置は事後1年以内に世界民から評価されなければならない(№515「評価主義」参照)
  2.連邦は度量衡・暦・通貨・言語に対して統一権を持つ。度量衡に対してはメートル制を採用する(№770「度量衡」参照。そのため3桁ごとにカンマを使用する。歴に対しては実用的には西暦を併記した連邦暦連邦成立を元年とする(№717「暦」参照)。通貨に対しては「Universal Currency=UC:世界通貨」を新たに制定し、これは物品バスケット制による保証を根拠にする。各国通貨は廃止し、為替制度は消滅する(№800「未来世界における通貨と単位の統合」参照)。言語は未定であるが、母国語・英語を実用語とし、エスペラント語を公用語とする案を考えている(№513「言語(言葉)の進化と劣化」参照)
  3.連邦は教育において連邦民(世界民)に対して最小限必要な教育権を持つ。これは所属・人格点・ノム思想の教育を含む(№344「教育論」参照)。ノム思想の教育においては、固定観念を排し、科学的合理性・人道的合理性を優先させる思考方法を学ばせる。各国言語に合わせて、エスペラント語を公用語として学ばせることを考えている。教育は未来の世界民を育てる最も重要なことであり、結果として世界民意識が不足している場合は連邦は教育内容・教育手法に介入することができる。
  4.諸国は連邦から委嘱されて警察力を保持することができる。警察の任務は、①治安の維持・②連邦の軍力への協力にある(№619「警察」参照)。平時には①のみであるため、各国の独自性が優先される。非常時(反乱・ウイルス蔓延、等)には連邦軍の指揮下に置かれる。警察力の保持できる武器はゴム弾・麻酔弾・ゴム警棒のみである。実弾銃器は一切使用できない(その必要がない)。
  5.諸国は連邦から委嘱されて実用度量衡(実用単位)を範囲を限って使用することができる。暦についても独自の伝統的暦を連邦暦に併記することができる(必要が無い場合には併記は不要)。言語については独自の国語を日常的に使用することができるが、公用語はエスペラント語となる(必要ならば母国語を併記)。
  6.諸国はその伝統文化の維持のために教育の中に母国の伝統文化を入れることができる(№236「伝統と合理精神」・№443「文化論」参照)。諸国の独自文化の保存は尊重される(№848「多様性の許容」参照)。但し、宗教的教育は排除されなければならない教宗分離・政教分離:宗教的伝統は徐々に排除されていく)。それは宗教が普遍性を欠いた非協調的なものであるからである。これは基本的にノム思想に反する。だが宗教の存在は現実的であり、またそれが果たす大きな役割を考えると禁止は人間の本能の欲求に反することからノム思想の観点からしても間違いである。そこで宗教が妥協的・協調的なものであれば、個人・家庭・社会から宗教を排除する必要はない(№442「宗教論」参照)
  7.個人は連邦民・世界民としての所属意識を持つことがなによりも重要であるが、発言・意見表明等の言論・思想の自由の権利を持つ(№415「思想の自由」・№503「表現の自由」・№673「所属意識とアイデンティティ」参照)。だがその権利には責任が伴い、反論・社会的制裁、等を覚悟しなければならないだろう。個人が自らの思想を違法行動(他人への強要・秘密結社化・暴力行為・反乱行為)に移さなければ、社会・国家・連邦は個人の言論・思想の自由の権利を奪ってはならない。個人の権利は人格点によって異なり、特に公共デバイス(コンピューターによる通信)の利用は人格点によって制限される。また個人の行動範囲・自由度も人格点によって異なる。個人は社会への貢献によって人格点を上げる権利を有するが、それを権利として主張することは人格を損なう。
  8.個人は自らの主張を社会に訴えることができるが、それは段階を経て行われなければならない。まずAI判定・市民オンブズマン(市民側に立った相談員)・地域オンブズマン・調停所・裁判所、というような段階がある(№035「人工知能(AI)」参照)。しかしその裁定は極めて合理的に短期間に行われるため、正当な主張と道理のある動機があれば、それほど手間は掛からずに個人の正義を訴えることができるだろう(№155「正義と悪行(悪事)」・№204「裁定・裁き・裁判」参照)
 
  国家が主権を失って連邦に帰属する地方となることにより、基本的に連邦が国家を支配することになる。だが実務的にも現実的にも連邦が諸国家の内情を知る訳ではないので、内政は連邦が諸国家に権限を移管(移譲ではない)して任せるということになる。国家は連邦法を守る限り、最大限の主権に近い権限を行使できることになるが、連邦が介入することはいつでもあり得ることであり、それに諸国家は対抗することはできない。
  国家が主権を失ったとすれば、個人が主権を失うということについても道理が一致することになる。個人が主権を失うということは、現代風に言えば基本的人権を失うということに等しい。未来世界では代わりに義務を果たすこと、社会に貢献することで権利を得られることになる。前記したように、赤児であっても数週間経って(日本では「お七夜」という習俗がある)生存が確固たるものになれば、その存在が社会に貢献していると見做されること(「見做し貢献」と呼ぶ)により、赤児にも生存権が生じ、社会はこの赤児を社会的に支えることになる。ただしそれは、無制限の救命措置を保証するものではない。赤児の死の確率は決して低くはなく、それは自然淘汰の範囲のことであり、通常の手当で助からない命に対して延命措置はしないことを意味する(№011「自然淘汰と病気」参照)。これは「自然の掟」に従うことをも意味する(№230「生きることと死ぬこと」・№288「死の哲学」・№995「自然の掟(摂理)」参照)
 
  最後に思想の統一について懸念を持つ人のために追加して説明しておこう。これまでの思想というものは個人の思想の押し付けであった。そしてその大部分には原理的欠陥・合理的欠陥が見られ、いわば固定観念化している。民主主義もまたその一つであり、民主主義思想・自由主義思想には原理的欠陥があった(№333「自由主義の破綻」・№924「民主主義の破綻」参照)。たとえば民主主義では民を主体とすると言いながら、実際は政権が主体となっており、修正は選挙というまやかし手法によるしかなく、民は情報によって惑わされてきた(トランプ政権の誕生も正にその典型的事例である)(№118「新選挙制度の提案」参照)民の意向というものは正当に政治に反映されてはいない実態がある。また逆に民の意向というものが正しいという証拠はどこにもない。政治やメディアによって突き動かされてきた民意がいつも戦争を欲した(№444「マスコミ・マスメディア論」参照)。また自分第一主義の民が世界を温暖化に導いた(№922「利己主義」参照)。それをノムは「愚民・愚衆」と呼ぶ(№201「良民と悪民(賢衆・賢民と愚衆・愚民)」参照)。そのような民を主体としたならば、世界は誤った方向に行かざるを得ず、政治は衆愚政治(ポピュリズム)に成らざるを得ない(№258「衆愚政治と衆賢政治」参照)。未来世界ではそのような愚を犯さないために、賢人を指導者に立て、民の意向に反してでも未来のために必要な政治を行うことになる。それは世界の安定・世界の平和のためである。
  自由主義についても同様である。人の自由を優先させたならば、人は自分にとって都合の良いことを求めるようになり、競争が発生するとともに百家争鳴状態になって秩序は保てなくなる(№093「動物の生存競争とヒトの競争心」参照)。これは無政府主義に繋がる危険な思想であり、イデオロギーである(№459「イデオロギーの本質」参照)。現代はこの自由主義に則っており、結果として人類が好き勝手に競争した結果地球温暖化を招いた。真綿で自分の首を絞めるようなことを民は選択してきたのである。民は自分の行為を反省して自粛・自制することはなく、結局民の自由に任せていては地球環境の最適化は図れない。民主主義も自由主義も自由民権運動という歴史的流れや願望から生じた幻想的理念的イデオロギーであり、それらに歴史的必然性はあったにせよもう既に古い概念であり、それらには何らの科学的根拠も未来的価値もない(№860「幻想と妄想」参照)
 
  以上の議論から分かるように、イデオロギーは固定観念化しており、それが今でも最善だと考えられてきているが、根源的に考えればそのイデオロギーに科学的な適切性がないことが分かるのである。そこで最も良い選択肢は思想の固定観念化ではなく、真に科学的合理性を最優先させた選択を可能にする思想なのだということに気付くだろう。それがノム思想の考え方の基本を成している。ノム思想では状況に応じた最適化された選択が取られる。平素は極めて民主的な政策が取られる場合もあるだろうし、緊急時のような場合には独裁的政策が取られることもあるだろう(2020年のコロナ禍が参考になる)。そして最適な選択をするためには利害得失のない統合AIの判断を仰ぐ必要もある。ノム思想は「こうしなければならない」という思想ではなく、「どうすれば未来に向けて最善の選択が可能か」を追求する思想である。そのためこの思考方法を全世界民に適用することは、全世界民の意識・意向を統一していくことに他ならず、それが最善の結果をもたらすならば、ノム思想を全世界民に統一的に教育することは理に適っていることになる。そして連邦制度と合わせて世界に安定と秩序(平和)がもたらされれば、それは結果としても全世界民にとって最善なことになるだろう。
 (完)

 
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