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【時事評論2020】

死刑制度は人間の叡智から出たものとは言えない(21.1.3追記)

2020-09-25
  9月24日、アメリカで連邦裁判所が死刑判決を決定した死刑囚クリストファー・アンドレ・バイルバの死刑執行が行われた。これはトランプ大統領の意向が強く影響しており、2019年に連邦レベルの死刑再開を決定し、今年7月から再開されている。トランプは「法と秩序」を掲げて黒人差別問題でも強硬な対応をしている。これを支持する白人層も多いと見られる。特に今回は、2件の殺人罪で2000年に死刑判決を受けたアフリカ系米国人、クリストファー・アンドレ・バイルバ死刑囚(40)が、1999年に19歳という未成年で犯した犯行であり、これも黒人絡みの様相を呈している。犯行時に未成年だった死刑囚の刑が連邦レベルで執行されたのは70年以上ぶりだそうだ。ある意味で白人主義者と言われるトランプの、黒人への報復という意味合いもあるのかもしれない。
 
  バイルバ死刑囚は1999年、テキサス州で若いカップルの車を盗み、2人をトランクに閉じ込めて射殺した後、車ごと遺体を焼いたとされる。弁護団は、事件当時19歳だったバイルバ死刑囚は精神年齢が成人に達していなかったと主張し死刑の執行停止を求めていたが、連邦最高裁は24日、弁護団の申し立てを却下した。某心理学者は「彼の脳は成熟した成人の脳ではなかったといえる」と語った。だが筆者からすれば、個人の身体上の条件は犯罪成立要件と何の関係もないと考える。その意味で現代の「心神喪失」による無罪判決ほど矛盾に満ちたものはない。これもまた法律主義の最大の欠陥の一つである(4.11「法律主義の欠陥・平時と戦時 」参照)
 
  アメリカではほとんどの犯罪は州法によって裁かれるようだ。州によって死刑制度があるかないかが異なり、ワシントンDCとプエルト・リコに死刑はない。特に深刻な事件は連邦裁判所が扱うが、連邦裁で死刑が言い渡される例はめったになく、刑の執行はさらに珍しいという。1988~2003年に連邦刑務所で死刑が執行されたのは3件のみで、その後は17年間にわたり0件だった。死刑執行が行われなかった期間の大統領はジョージ・ブッシュ、バラク・オバマであり、トランプになってから復活したと言える。2005年3月にはミズーリ州で、18歳以下の少年犯罪者に対する死刑適用は憲法違反との判決を出した。今回は19歳の事例であり、2005年以前の事件であるからこの判決には該当しない。連邦刑務所での死刑執行は、今年7月に17年ぶりに再開されてから3ヵ月間で7人目である。アメリカ国内の死刑執行のうち大部分は南部諸州で行われ、1977年以後はテキサス州は2位以下に大差をつけて最多執行州である(最近10年間平均で死刑執行の37%がテキサス州である)。
 
  アメリカでは、かつて「生命までを奪わない強姦による死刑」が横行していた。1870~1950年までに強姦を理由に771件が死刑判決を受けたが、そのうち701人が黒人であった。1972年に連邦最高裁によって「強姦を罪状とする死刑」は違憲との判決が出された。しかし、判決が成人が対象であったことから、「未成年に対する殺害を伴わない性犯罪の再犯者」へ死刑が適用される州法が5州で成立していた。だが連邦最高裁は2008年に殺人でない強姦罪に死刑は適用できないとの判断を下した。当時オバマは選挙中であったが、「強姦に対する死刑」を肯定する発言を行い、違憲判決を批判している。だが彼は大統領になってからは、死刑制度に否定的であった。技術進歩でDNA鑑定が可能になり、1973年から2001年までにアメリカ国内でDNA鑑定で96名の死刑囚の無罪が判明し釈放されている。これは強姦を犯罪とすることのリスクを物語っている。
 
  死刑執行に当たっての医師の立ち合いも法の解釈と医の倫理の間で論争となった。多くの州の州法では医師の立ち合いが決められていたが、ノースカロライナ州では立ち合いする医師がいなくなり、事実上死刑執行が出来なくなった。死刑廃止運動が興味深いことにテキサス州で起きた。凶悪な殺人を犯した女性のカーラ・フェイ・タッカーは死刑判決を受けたが、牧師と獄中結婚し、カトリックに帰依して人生のやり直しを訴えた事で同情が集まり、ヨハネ・パウロ2世までが助命嘆願をしたため、全米で死刑制度が話題となった。だが当時のブッシュ知事(後の大統領)は恩赦を拒否し、1998年2に死刑が執行されたが、そのときタッカーは38歳であった。それはテキサス州で南北戦争後初の女性に対する死刑執行となった。
 
  アメリカでは昔は絞首刑もあったし、感電死刑もあった。最近ではもっぱら薬物投与(注射)による方法が採用されている。この方法は安楽死に似ており、苦痛が最も少ないとされる。だが用いられるチオペンタールの入手が困難になり、別の薬殺が行われた結果、2014年には死ぬまで40分以上、2016年には13分掛かったという事例があった。2001年には被害者遺族に見せるという理由で執行の瞬間をCNNテレビで生中継(暗号送信のため、関係者以外は見られないよう配慮されていた)したことが問題となった。アメリカには「米死刑情報センター」という死刑監視団体があるそうである。ボランティアかどうかは分からないが、このような監視民間団体があるというのは、アメリカがまだその中身においては健全だということを示しているだろう。
 
  さて、日本ではどうかというと、アメリカとの比較で簡単に述べたい。まず18~19歳であっても少年死刑囚というものが存在する。高齢では77歳が最高年齢事例である。また執行方法は絞首刑のみである。日本の特徴的なところは、死刑が定まっても「死刑の執行は、法務大臣の命令による」との定めがあるため、大臣の意向で刑の執行が先延ばしされるケースが多かったことが挙げられる。刑の執行日はその日まで本人には知らされない。法の手続きに必要な相談などの面会以外は、家族などであっても面会を拘置所は拒否でき、それには合憲判決が出ている。過去には刑の執行前に「お別れ会」というものが開かれ、特別食事・特別入浴・家族との面談の機会があったという。非常に日本的な思いやりに満ちたもので、これが読売新聞のすっぱ抜き記事によってご破算となり、現在は当日朝に告げられ、すぐに執行されるという役所的かつ無慈悲なものになってしまった。
 
  中央アジアのカザフスタンでは2021年1月2日、死刑制度を廃止した。同国では死刑が20年近く凍結されてきたが、このまま廃止となった。 全ての国についての比較はここでは紙面の都合で検証できないので、未来世界での死刑制度の扱いについて述べたいと思う。死刑という「人間が人間を殺す手段」を未来世界では是としないだがそれよりも過酷な「社会放逐(追放)」という手段を持つ。人間の生活範囲から追放するということであり、自然界に放逐するという言い方もできるだろう。人間の文明から切り離されるため、過酷な試練を経て死んでいくことになるだろう。そこでは放逐者(追放者)は完全な自由を手にする。動物を殺そうが、同じ人間を殺そうが自由である。そこには法も掟も存在せず、自然界の弱肉強食の原理だけがある。手続きとしては放逐が決まった日から原則5日以内に定められた自然界に航空機・船舶などによって運ばれ、裸にして置き去られる。つまり文明の利器は一切持たせず、食料も与えない。ヘリコプターなどが最終的搬送手段として想定される。これは原理的に言って人が人を殺すことにはならないので、最初に述べた理念が守られることになる。場所としては絶海の孤島・砂漠などが候補として挙げられる。毎回の搬送は無駄なエネルギー損失となるので、ある程度人数が揃ってから執行されることも考えられる。日本では無人島の周りを鉄条網柵で囲むという設定も可能であろう。
 
  極刑(放逐刑・追放刑)に該当するような犯罪とはどういうものに限定すべきであろうか。それを考える上で重要なのは、未来世界では犯罪というものを、従来の犯罪の中で悪意によると判断されるものに限定する。たとえば、窃盗・強盗・詐欺・殺人などは悪意によって為されるものである。一方過失・本能行為(性行為・無銭飲食・ポイ捨て)などは必ずしも犯罪とする根拠に乏しく、現在の交通犯罪の中には悪意のない過失事故も犯罪扱いされているが、これは改正されるべきである。勿論被害や被害者が出た場合には立件されるが、「犯罪」とは呼ばない。「責任」と呼ぶだけで十分であろう。つまり悪意があるかどうかが最も重要となる。セクハラは犯罪ではないし、それは女がどう対応するかというコミュニケーションの問題である。パワハラも同様であり、パワハラに負けないように自分の試練と考えるべきことがらである。性衝動も権力欲も本能から生ずるものであり、これはどうコントロールするかの問題であって、犯罪というものとは異なる。今日ではこれらが混然として境目をなくしてしまっており、倫理・道徳が明確でなくなってきている。
 
  犯罪者(悪意を持ってなされた社会にとって有害な行為を犯した者)に対しては相手や社会に与えた損害(強姦は状況によって成立する犯罪である)の程度によって量刑を決めるべきであり、一律に決められるべきではない。たとえば雪道で車をスリップさせて横転し、後続の車列に被害が出た場合は、後続車にも責任があることから、道路の破損を含めて被害全体を責任の重さで按分して弁償なりをすべきである。これは罪ではないし、犯罪でもない。過失と呼ばれるべきものである。死者が出た場合は相応の責任を取らざるを得ないが、収監されるということはない。全財産を失うかもしれないが、名誉は守られる。このような考え方はノム思想の「状況論」・「確率論」・「運命論」などから出てくるものであり、誰もが道理によって納得できるものである。従来の法体系は道理体系に置き換えられて、全く異なるものになるだろう。
 
  犯罪の悪質性が極めて大きく、その影響が社会に衝撃を与えるようなものであった場合でも、更生の機会は与えられなければならない。それによって更生したと考えられる場合は刑を軽くする措置が取られるであろう。だがその後悔から生ずる精神的責め苦は犯人が生涯負わなければならない性質のものである。世間からどのように罵られようと、それは自業自得の原理から言って本人が負わなければならないものであり、マスコミが犯人をかばったり、同情したりする必要はない。もし犯人に反省の色がなく、言動でも罪を逃れようとする行為があったならば、道理からして容赦する必要はなく、極刑にせざるをえないこともしばしば生ずるであろう。9月19日に書いたような開き直ったような態度を取る犯罪者は極刑にすべきである。それは現代の死刑よりも相当多く生ずる可能性があるが、それに躊躇を感じる必要はない。人間界から不良要素を取り除くのは好ましいことであり、それによって人間の無限の増殖を抑えるという自然淘汰の原理にも符号することになる。つまりノム思想は自然主義に立っていることから、人間界の論理よりも自然界の論理を優先する。それは現代の基本的人権という人間が勝手に決めた概念を否定することにも繋がる。犯罪者は基本的に犯罪を犯した時点、そしてその裁決を受けた時点で権利を失い、義務だけを負わされることになる。それが服役の義務であり、更生の義務ということになる。囚人はどのような状況に置かれても文句は言えない。抗議することもできない。囚人が適切な管理の下にあるかどうかは賢人(司法オンブズマン)が判断することである。
 
  最後にテーマの「死刑制度は人間の叡智から出たものとは言えない」という主張について述べよう。死刑制度はどのように取り繕っても、人間が人間を殺す制度であり、それは古代から私刑や死刑という形で続いてきた伝統的手法ではあるが、人間がまだ愚かな半獣人であった時代の名残である。未来の叡智を持った人間(筆者はこれをネオサピエンスと名付けている)はそのような愚かな手法を採らない。自然の有り様から学んだ手法により、人間界から追放するという形が最も相応しいと考える。動物の群れや社会において、はみ出し者が群れから出ていくように、掟を守らない・守れない人間は社会から追放するのが最善の方法である。動物でも群れにとって悪さをする個体があったならば、殺すことはせずに群れから排斥するだろう。それは群れの生存にとって不利益だからである。人間も未来世界では「人類」という大きな群れを形成し、連邦という単一の組織を創る。そしてその生存・存続にとって必要な条件を整える。その条件に相応しくない人間は群れから出てもらうしかないが、残念ながら自らそのような道を人間は選べない。人間は人間社会のなかでしか生きられないようになってしまっているからである。そうなると群れ(人類)が不良者を追い出すしかないそれが「放逐」という仕組みである。放逐によって人類はその個体数を減らすかもしれないが、その方が人類全体の生存にとっては有利であろう。地球環境にとっても最善である。人間はこの地球ではおおよそ20億人以上に増えてはいけないのである。人口制御の一環としても放逐制度は必要である。その他には自然死(病気・事故)によるものがあることから、放逐制度は人為死という位置づけになり、それは死刑制度と同じ結果をもたらす。だが決定的に異なるのは、死刑制度が更生を前提にしたものではなく、罪過を基にして決められていることにある。これまでの死刑制度は犯した罪過が死刑でしか償えないという前提に立っているのに対し、放逐制度は更生の限界として放逐を定めているところが最大の違いなのである。
 
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