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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2020】

台湾における日本の貢献と裏切り

2020-08-31
  日本は台湾を1895年から1945年の50年間余に亘り統治した。その始まりは日清戦争(1894年7月-1895年4月)により日本が清国に勝利して、台湾の割譲を要求したことにより取得したことに始まる(下関条約)。当時の戦争では勝利国が敗戦国から領土を割譲されるのが習いとなっていた。台湾はそれまで中国本土から離れた離島であり、文明的には非常に遅れていた。日本はこの地を欧米列強のような搾取対象の植民地とする気はなく、日本国家の一部として発展させようと莫大な投資をして近代への幕開けを成し遂げようとした。だが初代総督の樺山資紀(かばやますけのり)が軍人であったこともあり、台湾総督府は軍事を背景に強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。統治は難渋を極めたようであるが当然のことであったろう。2代桂太郎・3代乃木希典(まれすけ)のあと、1989年に4代目総督に就任した児玉源太郎も軍人であったが、児玉は民政長官に後藤新平(医師・政治家・内務省官僚:1898-1906在任)を抜擢し、後藤は土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行い、一気に台湾の近代化を推進した。後藤は文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。そのため台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次(ぜんじ)同化の方法を模索するという統治方針を採った。 一方で児玉は統治に対する叛逆者には強力な取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。 当時の総督は行政権・司法権・駐屯軍指揮権・特別立法権などが付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものだった。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与した。
 
  最初のそれは「特別統治主義」と呼ばれ、1915年頃まで続いた。第6代総督の安東貞美(さだよし)と第7代総督の明石元二郎はやはり軍人出身であったが、特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年の盧溝橋事件までとされる。第一次世界大戦のあと、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した。「民族自決」が世界の潮流となり、1918年の米大統領ウィルソンが提唱した「民族自決の原則と、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになった。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化した。1919年(大正8年)、8代台湾総督に就任した田健治郎は初の文官出身者であり、「内地延長主義」を唱えて、台湾民衆を完全な日本国民とすることを目指した。これは「同化政策」と呼ばれる。この頃に幼少期であった人はすでに90歳位の年齢であるが、最も日本に愛着を感じている人である。地方自治拡大・日台共学生制度・共婚法・笞刑撤廃・日本語学習の整備などにより同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現した。また鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行った。台湾人の尊敬を受けている土木技師の八田與一が烏山頭ダムを造り、平地には実に「万里の長城」の6倍もの長さの農業用水路を張り巡らした。この一大治水灌漑事業によって、それまで不毛の大地であった台湾南部の嘉南平野を“台湾の食糧庫”と呼ばれるほど豊かな穀倉地帯へと変貌させたのはこの時代である。やがて台湾議会設置請願運動が起こったが、1927年に左派が運動の主導権を握ると台湾における社会運動は分裂することになる。
 
  1937年に日中戦争(支那事変)が勃発すると、日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなり、台湾における国民意識の向上が課題となったことにより、総督府により「皇民化政策」が推し進められることになる。皇民化運動は国語運動・改姓名・志願兵制度・宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動である。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情があった。その結果、およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡した。宗教・社会風俗の改革では寺廟整理や日本風な神前結婚や寺葬に改められたことがあり、これは台湾の独自文化を崩壊させることとなった。太平洋戦争での日本の敗戦で、1945年10月25日に台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手することとなったが、1949年10月1日以降に蒋介石率いる国民党が台湾に逃れてきたため、台湾人による統治は雲散霧消した。国民党は内省人(現地人)を弾圧し、多くの人は日本統治時代を懐かしんだという。
 
  日本の統治でも最初は弾圧的であったが、それは反抗する民を抑えるために止むを得ない措置であったとも言えよう。3年目からインフラ整備に取り組み、20年目から日本人と同等の権利を与えようとし、40年目あたりから日本人化政策が取られたというのは変革に2世代を要したということになり、遅いと言えば遅い歩みであったが、その間に台湾は農業だけでなく、工業的にも近代化を成し遂げていた。特に外省人支配から脱却して1988年から2000年まで中華民国総統を務めた内省人の李登輝が国民党の独裁体制を廃し、台湾の民主化を促進したのは幸運であった。彼は日本の貢献を最大限に評価しながらも民族の自決を最大にした。その日本の落とし子とも言える李登輝は先般亡くなられたが、その功績は実に世界史から観ても偉大であった。近代化された台湾をさらに発展させ、関係の無い中国共産党から属国呼ばわりされても、毅然と「二国論」を主張した。日本と同様島国でありながら、日本と互角に渡り合える立派な独立国に成長できたのは、やはり何といっても日本の皇民化政策にあっただろう。それによって日本人としての気概が生まれ、何にも耐え得る根性が植え付けられた。台湾人から観れば不遜な言い方かもしれないが、台湾は日本の養子のような存在である。幼い時期まで日本が育て、その後実親に戻されたが過酷に扱われ、だがそれにもめげずに独立して立派な成人になった。その養父母である日本は台湾を裏切って中国になびいた。だが台湾は養親に対する恩義を忘れなかった。そして養い親である日本は今でも遠くから台湾の幸せを願っている。
 
  李登輝総統時代、国策顧問を務めた許文龍は著書『台湾の歴史』の中で、「台湾の基礎は殆ど日本統治時代に建設したもので、我々はその上に追加建設したと言ってもよい。当時の日本人に感謝し、彼らを公平に認識すべきである」と述べている。有難い言葉で我々戦後の世代も感謝に絶えない。
  だが世界の厳しい環境はこの両国の麗しい関係を非情なものにしている。日本が台湾に対して本当に養親としての愛情を示さなければならないときに、日本は超大国になった中国に対してまだ遠慮して台湾に愛情を示せていない。いっそのこと成人した台湾と手を組んで、鬼親である中国と対決できれば日本の武士道も輝くことになるであろうに。そしてそれは李登輝が最も切実に望んでいたことにちがいない。
 
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