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【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20))

【時事評論2020】

環境創造思想(10.19修正・加筆改訂)

2020-10-12
  「環境創造」という言葉は既に某学者によって書名にも使われているものであり、特に筆者の造語ではない。最近では大学の学科名・学部名にすら使われており、会社の名前にもなっている。だがノムの提示する概念は書籍のものや通説とは大分異なっており、その意味で筆者独自のノム思想における新しい概念と言ってもよいであろう。従来の環境創造という言葉の多くは、開発の代名詞となっているからである。筆者は人の所為の多くが創造的であると考えている。それらが人間界以外の自然界には無いからである。そして人間のこの行為なりが、人によって独創的と評価されることも多い。それらは脳の知的部分(大部分が大脳)によって生み出される創造的行為・創造的仕事であり、自然界に見られないことから創造的であると考えるのである
 
  これを環境に当てはめた場合、人の所為・行為は環境を破壊するか創造するか、2つの評価が可能であろう。たとえば人間の呼吸は生物一般と同じ行動であり、それは自然循環の中に組み入れられることから無害と考えて良く、もちろん創造的な行為ではない。だが人間がスーパーで買った肉を食べるということになると、問題は複雑になる。これは自然界にはない行為であるが、食肉の大部分は畜産業の産物であり、その畜産が地球環境に多大な影響を与えていることが近年の研究から明らかになってきているからである。すると食肉を食べると言う行為は地球環境破壊に貢献しているということになり、生物一般と同じ行動のように見えるが、その実、環境破壊に寄与してしまっているということになる。近年流行りのベジタリアン・ビーガンなどは、この事を含めて食肉を拒否している場合が多く、その思想には一定の根拠があると考えるべきであろう。では肉を食べることは破壊的かというと、それは一概にそう決めつけるのも問題であり、むしろ畜産業が人間の独特な生産形態であり、それは破壊的であると言っても良いであろう。同様に、農業・工業など、ほとんどの産業が人間だけが行っている破壊行為である
 
  だが人間は智恵によってこれをある程度克服してきた。公害というかつてあった破壊行為は極めて少なくなった。だが根本的に考えれば、化石燃料を使った人間行為は全て環境破壊に貢献しており、それが地球温暖化という破滅的事象を惹き起こしている。もし人間が化石燃料などの地球の貯蔵系燃料を使わず、自然循環から得られる太陽エネルギーを起源とする自然エネルギーと呼ばれるものを使うならば、それは多くの場合人間に利益を与えるだけでなく、自然界を美しいものに変え得るであろう。その環境的影響はほとんどなくなり、多くの人間の所為は善となる可能性がある。
 
  もし人間が化石燃料を使わなくなったとしても、人間が自然界の生態系を破壊するならば、それは自然にとって悪となる。たとえば娯楽としての狩猟・釣り、大規模産業としての牧畜・魚の養殖・森林伐採などである。これらは自然生態系の多様性を失わせることが多く、古代人間文明の多くが砂漠化によって消滅したことがその証左となるであろう。現代で言えば都市化がこれに相当し、大都市に限らず人の密集する都市はどう考えても環境破壊に寄与しているとしか考えられない。自然循環というものがその場で行われるように、都市環境というものももっと密度を疎にして、各家庭で物質循環が行われるようにしていかなければならない。
 
  逆に人間の所為が環境を改善する事例もたくさんある。筆者は以前ある本で仁徳天皇陵(大仙陵古墳)・浜離宮・江戸、などを環境創造の事例として挙げた。イギリスにおける貴族の領地は美しいがどちらかと言えば環境破壊の事例に挙げられるだろう。利益を得ている人の数がその面積に対して少ないこともその理由の1つであり、もっと森林に囲まれていれば環境創造の事例になるだろう。その判断は、自然の状態に放置した場合と、人間が手を加えた場合の地球と人間の利益がどちらが大きいかによって判断されることになる。
 
  筆者はこのことから、人間の所為・行為を「環境創造」と「環境破壊」という2つの側面から捉えることを提唱する環境創造思想」と言った場合、良い面を評価する思想に他ならない。これまで公害問題や環境問題が世を騒がせてきた折り、多くの環境破壊を指摘する書籍が出版され、新聞紙上でも特集やニュースなどで指摘されてきた。だが人間の行為の良い面を評価しようという動きはほとんど見たことがない。技術開発などは大々的に報じられるが、それらが創造的か破壊的かという視点で評価されたこともない。そこでこの新しい視点によって、人間の所為・行為を改めて評価してみたいと考えたのである。
 
  まず最初に分かりやすい事例を挙げてみよう。人間が人間力(人力)によりモノを創り出す行為は全て創造的で良いものである。古代ではピラミッドがあり、パルテノン神殿があり、パンテオンもそうであった。特にパンテオンは自然素材を使ったローマンコンクリートを使用しており、それは1800年ほどの長きに亘って人々を魅了し、今なお強度を保っている。河川改造や運河造成も環境改善に大きく良い影響を与えた。卑近な例では造園がある。人力により作られた名園はたくさんあり、近年ではブルドーザーやパワーショベルなど機械力による造園もなされているが、それは化石燃料を使用しているため難がある。昔の手工芸品はほとんど人の手によってのみ創られたものであり、創造力のたまものであると言えよう。では現代ではもう化石燃料によって得られるエネルギーに頼らない創造物はないのであろうか。あるいは別の問いかけをするとすれば、化石燃料に依って作られる人工的創造物に価値はないのであろうか。
 
  問題は創造されたものの価値とその価値の永続性であろう。一時的に環境を汚染して創造されたものが、長い年月(人の感覚)、地球と人にとって価値を発揮し続ければ、それは相対的に有意義なものとして受け入れることができるであろう。そして未来世界を想像すれば、化石燃料が自然エネルギーに取って代わられることで、ブルドーザーやパワーショベルがバイオアルコール燃料で動かせる時代がくるかもしれず、燃料電池(水素電池)などによって動かせる時代がまもなく来るであろう。そうすれば、人は心置きなく自然の改造に取り組むこともできるようになるに違いない。近年日本では、リニア新幹線の建設に当たって、山を貫通するトンネルが環境破壊に繋がるのではないかと言う議論がある。筆者としては、これは視点によって賛成・反対の両意見が出てくる典型的な事例であるとみているが、長い目でみればこれはどちらかと言えば破壊の方が大きいかもしれない。だが人間界の利便性を求める風潮からすれば、遠い将来に起こる事象を云々したとしてもそれが環境に与える影響は地盤変化や山の変形程度であり、地球規模からみれば自然界の変異よりはるかに小さい。よってこれは筆者の観点からすれば善と考える。
 
  一般に開発と呼ばれている自然を改造する試みは、一面では環境破壊に繋がることも多い。問題は地盤の安定性を開発前よりも強化すること・緑化率を開発前よりも高めることにある。住宅地開発の多くは森林を切り開いたりすることで永続的な環境破壊に繋がっており、「未来の田園都市構想」では地下に住居や工場を作って地上を緑の楽園にするので、その懸念を小さくすることができるどころか、まさに環境創造となるであろう
 
  砂漠の緑化は最高のレベルの環境創造であり、地球全体の気候の安定にも寄与する。問題は水の供給にあるが、一旦植物が定着し森林ができたりすると、自然に降雨が増えるとされ、この問題はある程度自然の働きに任せることができる。砂漠に土壌ができはじめると、劇的に環境が変わることがこれまでの開発でも実証されている。2019年12月4日にアフガニスタンで社会貢献していたNPOの中村(てつ(73)が過激派テロリストにより銃撃されて殺害されたが、彼は最初パキスタンで医師として活動していたが、政府の支援が得られず止むを得ずアフガニスタンに拠点を移して山岳地帯に新たな診療所を建てようと考えた。だがアフガニスタンは内戦に明け暮れる国であり、2001年のアフガニスタンでは餓えと乾きが多くの人々の命を奪っていた。彼がそこで感じたのは、「診療所を100個造るよりも、用水路を1本造った方がどれだけみんなの健康に役立つかわからない」ということだった。治療よりも生活が大きな問題となっており、地域に農業を根付かせようと、アフガニスタン有数の大河クナール川の水を水路によって砂漠に導き、広大な緑地を創り出した。2010年時点での水路の総延長は25キロに達し、1万6千ヘクタールの砂漠を緑地に変えたのである。水さえあれば砂漠を緑地に変えることは可能である。さらに近くに川が無い場所では、地面にシートを被せて水の蒸散を防ぎ、これを冷却することで凝縮水を作り出し、点滴農法で作物を育てるという方法も考えられるだろう。問題はコストであるが、未来世界は競争社会ではないのでコストの問題はそれほど大きな障害とはならない。
 
  海洋の緑化ということも最高のレベルに入るだろう。これは一般には漁礁形成と呼ばれる。そこには昆布やワカメなどの海藻が自然に生えるだろう。東京湾で造成したコンクリートに自然に生えた海藻が多くの魚を呼び寄せている。人工的な緑化であっても、それが化石燃料を使った資材で作られたものであったとしても、それが永久的に生物生態系の多様化を創り出しているとすれば、それは大いに価値があるということになる。
 
  もっと卑近な事例を挙げると、自宅の造園がある。人工資材をできるだけ使わず、楽しみとしてコツコツ毎日手入れや改造をしていけば、かなり立派な庭園を造ることができる。これも環境創造の一環として評価できるだろうが、有効期間は短い。筆者は雑草取りを趣味として近所の雑草を取って景観を維持することに尽力しているが、時には除草剤やバーナーによる焼却除草をすることもある。これは環境破壊に繋がる可能性もあり、決して薦められる方法ではないが、やらないよりはマシだと考えている。将来はバイオアルコールを使用したバーナーが開発されることを願っており、また自然に存在する薬剤を使った除草剤が開発されることを期待する。民放の『ポツンと一軒家』という番組では、たった一人で山野を開発して造園を行い、数千本の木を植えたという事例が沢山紹介されている。だが元々存在した森を切り開いたという負の面も見逃すことはできない。人間の力というか創造力は恐るべきものがあり、それが環境創造に繋がっているか環境破壊に繋がっているかは適切に評価されなければならないだろう。
 
  以上に挙げた事例から分かるように、環境創造という概念を思想にまで高めるためには、その理念の定義をはっきりさせなければならず、簡単に表現するならば、①植物量の増加・②地盤改造と強化・③生物多様性の増大・④行為に汚染要素が少ない、という4条件を満足するならば、それは環境創造であると認められるだろう
 
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