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【時事評論2020】

人類の好奇心と冒険心(その2)(2657文字)

2020-12-24
  前項では人類の持つ好奇心と冒険心が人類の繁栄をもたらしたということまでを述べた。そしてその最後に筆者の持つ疑念・懸念についても書き加えた。すなわち、人類は大脳を飛躍的に進化させたが故に繁栄もしたが、現在はその大脳の知能故に自らを滅ぼそうとしているのではないかという懸念である。本項では、進歩は善なのか、繁栄は善なのか、という哲学的思索を含めて、人類の持つ好奇心の制御は可能なのか、という本質的かつ最も重要な問題に迫りたい。

  人類の現状を見ると、既に世界には冒険する地域はほとんど無くなり、宇宙に好奇心を向けている。だがその宇宙開発競争はいつしか軍事的支配を意味するようになり、南米のチリという弱小国でさえ南極に軍事施設を作っていることが最近分かった。そのうち北極の航路覇権を巡る紛争が出てくることが予想され、月でも領有権が主張されるようになるかもしれない。世界が国家という主権組織の集合体であるかぎり、この種の紛争は尽きないであろう。

  もし人類が地球を共有する棲家だと考え、世界を1つにまとめようという意欲を持てば、この問題の解決が見えてくる。だがその時に新たに持ち上がる問題もある。それは人類が好奇心というものを制御できるかどうかという問題である。これが本能に基づく限り、それを制御するのは容易ではない。それが可能かどうかを示唆する研究が前出したNHKの番組の中にあった。東京都医学総合研究所では思春期の若者の心の変化を長期的に調査している。西田淳史(あつし) センター長は10代の子ども約3000人を対象に8年間の継続調査を行っている。その中で現代に異変が起こっていると感じているという。それは意欲の低下に表れており、その子らに共通するのが「他人に迷惑を掛けない」という日本独特の教育にあるという。これは思春期に必要な「トライ&エラー」という行動を少なくさせてしまい、新規の事態に対応できない子になってしまう、というのだ。

  だが筆者はこの評価自体に疑問を持つ。すなわち「いい子でなぜいけないのか?」・「変化・進歩を前提にした考え方が正しいと言えるのか?」・「むしろ変化を求めない未来に適合した進歩的な子らと評価できないか?」というような疑問である。すなわち番組では競争社会を前提にしており、その中で勝ち抜くには他人のことはどうでも、自分自身が進歩・発展することが大切だ、という価値観を暗に示唆しているようである。筆者は逆に、未来社会では非競争社会・非繁栄社会を目指すところから、このような意欲を持たない子らを高く評価する。番組では他人に迷惑を掛けても立身出世する子の方が価値があるとでも言いたげな感じである。

  ここに現代社会の大きな問題がある。従来からの「いい子」が正しく評価されていないため、彼らは競争社会の中で自分を見失う。やる気が無くなる・不登校になる・ひきこもりになる・不労者になる、という一連の問題行動は、確かにチャレンジ精神を失ったために起こったとも言えるが、社会がそれを正当に評価してこなかったことも大きな要因なのではないだろうか。筆者の事例を取り上げてみたい。筆者はやはり幼少の頃の世の中の価値観として「他人に迷惑を掛けない」ことが最善だと教わってきた。学業段階ではそれなりに頑張って優等生にもなった。だが大人の社会に入ってから、人の脚を引っ張るという競争を知った。だがそれを良しとしなかったので、人の上に立つということを避けるようになった。自ら昇進を退ける行動をするようになり、家内にも30歳半ばで「出世はしないから諦めてくれ」と伝えた。そして自分の世界を築いて最高の幸せを得た。それは誰にも迷惑を掛けず、誰にも傷を負わせることなく成し遂げた事業であった。そうした生き方が悪いと誰にも批判されることはないだろう。

  さらに言えば、このHPを立ち上げたことでも分かるように、平凡な幸せを噛みしめながら、世に貢献しようという意欲は人の何十倍も強い。そのことはいいことなのではないだろうか。人生を振り返ってみれば、能力不足から学業に挫折して不登校になったこともあった。学生結婚という無茶をやったこともあった。全て青春時代のことである。その特徴を遺憾なく発揮して、無茶をやってきたのかもしれない。だが人に迷惑を掛けてはいけないという思いはずっと続いている。アメリカに行きたいと思ったこともあるが、両親を置いては行けない、ということで断念した思い出もある。なぜ「人に迷惑を掛けない」ということが悪いことのようにされなければならないのか、NHKに問いたい。

  未来世界では人々は与えられた環境の中でゆったりと生存を賭けて暮らすようになるだろう。そこでは人を追い抜くとか、出世とかの価値は否定される。確かに地位は尊崇されるが、それは責任の重さを物語っているものであって、羨まれるものではないだろう。そのような未来ではどうやって人間の好奇心を満足させたら良いのだろうか。生殖本能については「公的性欲処理施設」(「セリシェル」と呼ぶ)というものを提案して解決法を示した。知的本能についても解決法はあるだろう。たとえば知的好奇心を論文作成に向けるというのもその一つである。これは学者の科学的手法によるものではなく、飽くまでも素人としての経験論に基づく者であって良い。それが社会の役に立つと評価されれば人格点を引き上げ、表彰することで価値が生まれる。ノムメディアにおけるノムペディア(ウイキペディアと同様なもの)に投稿すればそれは人格点に反映される。

  冒険をしたい人には、冒険ツアーを公的に募集し、参加者を募るのが良いだろう。それは未踏の地を探索することなどで地学的・資源的・環境的調査の一環となるであろう。また手近なところでは、アドベンチャーワールドというようなイベント施設を作ることも良いだろう。闘争を好む人には、各種スポーツ以外の闘争ゲームを用意してもいいだろう。それらはお仕着せなものになるが、大方の人はそれで十分満足するのである。ローマ時代のコロッセオほど残虐なものである必要はないが、参加者が命がけで臨むようなゲームがあっても良い。自業自得原理を適用するので、開催者が責任を問われることはない。そのような未来社会はかなり現代よりは刺激に満ちたものとなることが予想される。それは人間の持つ好奇心・冒険心を満足させるとともに、環境の変化を抑制することも同時に可能にするものでなければならない。


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