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【時事評論2020】

科学的思考の世界(3295文字)

2020-12-16
  一服しながらいろいろ考えていると、何気ない事柄や事象に普遍的な真理を見つけることが多い。早速それを原理化・法則化する脳の作業が始まる。それが従来の何らかの科学的原理や法則にあてはまると分かると、今度はそれをノム思想で検証する。ノム思想の体系の中に組み入れられることが分かると、今度はそれを演繹的に他に応用することを考える。そこから「ああしたらいい、こうしたらいい」というアイデアが次々に浮かぶ。おおよそ科学者の思考というものはこういうものではないかと想像する。
 
  それに対して、一般の人の思考は恐らく全く異なるだろう。新聞記事を読んで、それが気に入った内容であると気分が良くなり、自分の考えと合わない記事であるとイライラが高じてきて、ついには「なんてばかなことだ」・「なんて馬鹿な奴らだ」と怒りに達する。人と話していても、相手が気に入らないことを言えばその場を去るか怒るであろう。人は日常的行動を無意識に行っており、それに疑問を持つことはない。むしろ日常行動がうまくいっていると、自分に自信が出てきて考え方をさえ正しいと自画自賛するようになる。歳をとると頑固になったり意固地になるのは、人がいつも自己正当化という作業を繰り返してきたからに他ならない。それは自分自身を神とする信仰が芽生えたことを意味する
 
  ユバル・ノア・ハラリは人間の能力とその実績をその表層だけを過大に評価して「人間は神となった」と考えているようだが、確かにその一面は評価できるが、人間の心理や思考を考えると筆者はとてもそのような大ぼら吹きはできない(12.12「ユバル・ノア・ハラリの特別講義」参照)。実に庶民の考えは貧しく動物的であり、何よりも本能的である。その考え方や思考の仕方を分析してみると、ほとんどが本能(生存本能・生殖本能・知的本能)から出たものであり、その本能が動物的であるか、人間的知的本能(大脳本能)から出てきたものであるかの違いだけである。人間は知的本能に於いてさえも自己の欲望を織り込んでしまい、決して論理的な思考を行っていない人間が反省(自己検証による思考の再構成)をするということは滅多になく、いつも自己弁護・言い訳・自己正当化に終始している。国家はその典型であり、歴史上謝罪したというのは戦争に負けた国だけであった。
 
  オバマ元大統領は2009年11月にノーベル平和賞受賞が決定した。2009年1月に大統領に就任しまだ政権に就いて3ヶ月という何の実績も出していないときに、実績を作ろうとしたわけではないと思いたいが、2009年4月5日にプラハでいきなり「核廃絶宣言」をした。自国でそれをせず、他国でそれをしたというところに政治家としての熟慮というかしたたかさが見られる。自国では批判を浴び政治生命に係るが、他国でならば世界がそれを先に評価してしまうからである。世界が評価してしまえば自国のアメリカもそれを誇りとはすれども批判はできないだろう。オバマは「プラハ宣言」という言葉が歴史に刻まれることも計算していただろう。2016年5月27日にオバマ大統領が米国大統領として初めて日本の広島で原爆投下に触れたとき、彼はそれを不幸なことだったとし、二度と繰り返してはならないことだと言明はしたが、謝罪はしなかった。それは諧謔的にみれば、その彼のパフォーマンスはプラハで自分の唱えた「核廃絶宣言」の正当化を日本に宣伝しに来たに過ぎない。もっと言えばノーベル賞受賞への批判に対して後付け実績を付け加えようとしたのである。彼がもし受賞を断っていれば、彼の言動は本物であったと歴史に刻まれたであろう。彼はノミネートされただけでも歴史に栄誉を飾れたのである。だが一方、彼は任期中に中国の南シナ海で台頭をほとんど黙認し、現在の米中間冷戦の礎を築いてしまった。その他の面では実に格好よく振る舞ったため、今でもカリスマ性のあった大統領として記憶に残ることになった。脚光を浴びる舞台に立って華麗に振る舞ったが、「世界の警察官」を放棄したことで相対的にアメリカを衰微させた。だがそれは歴史的にはある意味でやむを得ない流れでもあった。彼一人に責任を負わせることは適切ではない。
 
  日本の歴代首相も役人的言辞で中国の尖閣諸島への恣意的侵入を非難はしてきたが、その言葉には真剣さも怒りも見られない。「尖閣諸島に問題は存在しない」というとぼけた役人的説明はそれを端的に物語っている。先だって11月24日には来日した王毅外相との会談の後の記者会見で、茂木外相は日本の立場を述べただけであったが、王は尖閣・沖縄領有権主張に近い発言をした。これに対して茂木は抗議すらしなかった。世界はこの報道をどう受け止めたであろうか。茂木は「共同記者会見」が1度の発言しか許されず、茂木は先であったために、後から王に言いたい放題言われてしまった、というような言い訳をしたが、日本国内で茂木に対して批判が沸き起こったため、岸田信夫防衛相が14日になって中国の魏鳳和国務委員兼国防相とテレビ会議をして強い懸念(厳重な抗議ではない)を示したとして菅内閣は幕引きを図った。
  韓国に対しても、何度も韓国の要求に従って戦時中のことに関して謝罪を繰り返してきた。これは敗戦国だからである(アメリカは勝利国であるから決して謝罪はしない)。これも歴史の法則に従っているので、許せはしないが理解できることである。だが謝罪は一度で十分であり、現在の国権の最高決定者である総理大臣が述べればそれで済むことであり、天皇は決定者ではなく承認者であったため謝罪をする必要はない。天皇が変われば当然現天皇に謝罪する義務はない。そのことを明確に主張すべきであるのに、日本は武士道精神に立ってかどうか分からないが一切の言い訳をしようともしない。これらの受け身的発言は国際的信用を無くすのに十分な効果を発揮するだろう。
 
  科学的思考というものは、情緒や感情、そして武士道精神というような精神性を考慮しない。だが結論として武士道精神の合理性が導かれることはあり得る。すなわち、情緒・感情・精神・信条などを否定はしていないが、それを思考に含めない。であるから、もし人が怒りを感じるような状態で思考しているとすれば、それはもはや科学的思考とは言えないのである。そして思考は常に、帰納的思考から始めるべきであり、その次に演繹的思考に移るべきである。イデオロギーに基づく議論は最初からイデオロギーを原点に演繹的思考で始まっており、それは排除されるべきである。これらは常人の取るべき思考順序であるべきである。だが天才は、帰納すべき原理・法則が見つけられない場合、あらたな原理・法則を編み出す。それによって理論はさらなる高みに至らなければならず、低い次元に堕ちてはならない(11.25「天才不要論」参照)
 
  未来世界ではこのような科学的思考が徹底的に幼少時から訓練されるため、多くの人は大人になってからも科学的思考ができるようになるであろう。それは無味乾燥なつまらない世界を意味しない。未来世界であっても人間の情動は是認されるからである。逆にそれは自然な人間の感情の発露、ストレスの昇華方法として推奨されるものになるだろう。情動は科学的に観れば矛盾や不条理を含むが、それは人間心理を科学することでその機序が解明されていくであろう。であるから人間が未来世界で議論や決定を行う際には、情動を含ませず(議論に怒りを持ち込まない)に議論することを習得しているであろう(7.24「AIの適切利用」参照)。それは叡智ある人間に一歩近づいた証拠となる。また人間の思考はさまざまな多様性を生み出してまとまりが付かない(学説は多数存在する)ことから、情動を持たないとされるAIに思考を肩代わりさせる必要が出てくるだろう(8.17「人間とAIの知能における比較とその役割」・12.15「AIによる歴史検証」参照)。そのときには人間とAIの共同作業というものが生まれることになる(11.7「AIに期待する」参照)

 
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