【時事評論2024】
大義の考え方
2024-12-15
「大義」という言葉については既にいくつかの論考をしてきたが、分かりにくい点もあったかと思う(21.8.21「大義論」・22.8.1「正義と大義」・23.3.30「大義・中義・小義論」)。そこで、最近のニュースを取り上げて、具体的に大義の考え方を説明することにした。
最初に取り上げるのは、14日にNHKで放送された「新プロジェクトX」である。コロナ禍に於ける医療現場の奮闘を描いたものであり、医療機械であるエクモが果たした役割についても触れていた。出産後にコロナに罹った母親が、瀕死の中から救われたという物語である。誰もがこれには感動したに違いない。ノムも同様である。だがこの医療行為が大義に基づいているかというと、ノムはそうは考えない(21.3.13「人類はウイルスと戦争すべきではない」)。登場する医師らは人間からすれば英雄であるが、一人の人間の命を救うために多大な努力と費用を掛けたことは、人類全体からすれば富裕国の傲慢であった(20.2.27「高額医療は国家を破綻させる」)。減らすべき人口を減らさなかったという意味での評価からすれば、小義であったと言えよう(22.7.12「世界は人口爆発を脅威と捉えていない」)。
14日の韓国に於ける大統領弾劾決議案が可決したことについても、国民の75%が弾劾に賛成していることから、大義あることだと評価できると考える向きが多いと思われるが、大局的に観ると、国内の混乱を増幅させることになる可能性が大きいことから、国民も議会も、中義と小義の中間位の評価しかできないとノムは考える。これはこれからの政局の動きを見て行けば、より分かってくると思われる。国民はユンの戒厳令で受けた衝撃の代償を求めており、野党は自党による政権交代のみを考えており、いずれも国家の安定を考えていないからである(20.7.25「世界安定度指数の提唱」23.10.31「安定度指数」)。
14日のニュースに、シリアのアサド大統領が逃亡したことについて書いているものがあった。アサドが側近にも親族にも相談せずに、家族だけでロシアの助けを借りてロシアに亡命したことは、誰が見ても明らかに自分第一主義に立った行動であり、国を捨てた亡国者であることは明白である。小義しかなかったと断定できる事案である(23.1.12「売国奴」)。
13日にドイツのショルツ首相が、「シリア難民の残留を歓迎する」と語ったことについて評価すると、これは一見大義あることと受け取られやすいが、ノムの観方では、ドイツの労働者が減ることを懸念しての発言と直感した。すなわち自国優先主義に立っており、中義でしかないと考える。またショルツ首相自身の立場を守るということも含まれていると考えられるため、小義であるとも言える。
13日のニュースでは、ベトナムの元国家主席に汚職で警告が出された、というものがあった。国家の名誉を汚す過去の行為に対して、現政権が「警告」という形でその不名誉を明らかにしたことは国家の恥であるが、汚職を許さないという決然とした態度を政権が示したという点で評価できる。ただ、これは政権側の都合と自己弁護もあったかもしれず、大義とまでは言えない。中義と見做すべきであろう。
12日のニュースで、トランプがウクライナによるロシアへの長距離攻撃を批判した、というものがあった。これはバイデンによる長距離攻撃容認を批判したのと同じであり、またトランプのロシア寄り姿勢を考えると、国家への裏切り行為であるとも言える。恐らく、来年1月20日の大統領就任時に、即座に停戦させることを可能にするための布石であろう。自分の手柄にしようとしていることは見え見えであり、ウクライナを犠牲にして和平を実現させることを誇るためであろう。小義の典型と言える。だが世界はこれを大義ある行為と評価するかもしれない。
12日のニュースで、習近平が早々にトランプの就任式に欠席することを伝えた、というものがあった。習が敵国の大統領就任式に出たくない気持ちはよく分かるが、欠席によって米中関係が決定的に悪化することは誰の目にも明らかであり、緊張緩和の機会さえ葬ったことについては、非難されても当然であろう。習としては、衝突目前の敵国の祝儀に関わらないことで、中国としての立場をはっきりさせた、と言える。これは世界にとって不幸なことであり、自国を優先したという意味で小義、もしくは中義である。
12日には、中露が安保連携を強化したというニュースがあった。中露からすれば当然のことであるし、中露国民も諸手を上げて賛成するであろう。だが世界平和というより大きな視点からみれば、脅威をエスカレーションさせただけであり、決して大義ではない(22.11.13「エスカレーション原理」)。国家の利益を優先させようとしたという意味で中義である。
以上、いくつかのニュースの評価をしてみたが、いずれも大儀に基づく行動というものは無かった。過去にはそれに該当するものがあっただろうが、ごくわずかにしか過ぎない。たとえば、地球温暖化を防止するために、新たな技術を開発したというニュースがあったとすれば、それは大義に基づく行動かといえば、必ずしもそうではないことは明らかである。即ち研究者の名誉心や、企業の利益が掛かっているからである。誰かが純粋な気持ちで地球温暖化を食い止めようと努力していたとすれば、それは大義に適っている。また真摯な気持ちから自分の利益を度外視して平和形成に努力しているとすれば、そういう人も大儀に基づいた行動であると言える。人間界には、そうした行動がほとんど見られないのが残念なことである。人の行動を評価するときには、①それがその人の利益と結びついているか・②それが所属する組織の利益に結びついているか・③大義を全うするに相応しい行動か、を評価する必要があるだろう(22.4.20「人の行動と社会への影響」)。
(12.11起案・12.14起筆・終筆・12.15掲載0:00)