【時事評論2024】
原理主義の成功と蹉跌
2024-10-29
前項で「原理主義」について述べたが、原理主義を採るほとんどの組織が大きな誤りをしているにも拘わらず、原理主義は世界で成功しているようにも見受けられる。それはたとえば、イスラム教徒の増大やイスラム原理主義に立つ過激派が、相も変わらずテロを繰り返しているにも拘らず、一向に衰退する気配を見せないからである。その背景には世界の貧困というものがあるとは思うが、人々がこうした原理主義に魅力を感じて引き寄せられているということがあるのだろう。また民主主義も同様である。人間個人を中心に据えた価値観から出てきた民主主義に世界の多くの国がその幻影に惑わされて、民主主義を採用した。だが原理主義が根本から誤っていることから、その将来は危ういと考えられる(21.1.4「民主国家の挫折感」・「民主主義は集団幻想」)。一方、世界が混乱の極みに落ち込んでいけばいくほど、こうした極端な原理主義はより魅惑的なものに見えるのかもしれない。世界が原理主義の方向に向かうのか、より普遍的な常識の世界に向かうのか、結論は出ないかもしれないが、考察してみることにした。
たとえば民主主義も一種の幻想から生まれた原理主義であるとノムは考える。世界が競争下にあるにも拘わらず、民主主義国家は専制主義国家に対峙できていない。中国はそうした民主主義国家の弱点をあざ笑うかのように、堂々と独立国台湾を侵略することを明言している。ロシアは中国に先駆けて、隣国ウクライナを侵略しようとしている。アフリカ諸国の中には、武力によってクーデターを起こして専制国家に転じた国も多い。こうした国に共通しているのは、国民が貧困下にあるということだろう。人々は貧困に喘ぐと専制的国家を望むことが多い。その方がより強く見えるからだろうし、独裁者は大衆迎合的な大法螺を唱えることで国民を欺くことを平気でやってのけるからである。そして独裁が成立した時には、一時的には成功を収めるが、国家は疲弊と破綻に向って進むのが常である。国民がそれに気が付いたときはもう遅い。
そうしたことから、表面的には原理主義が現代では成功していると見えるのである。過激派がどこから資金を得て武器を調達しているのかを知らないが、彼らは国が亡ぶまで戦うであろう。以前は共産主義が旗印であったが、今はほとんどが民主主義かイスラム主義が旗印になっているようだ。多くの愚衆と化した貧民はそうした原理主義を受け入れている(21.9.26「愚民論」)。ガザが最も典型的な事例であるが、ハマスを受け入れて支持してきた。そしてハマスが破滅的軍事行動に出たときには、それを諸手を挙げて称賛した。だがそれは破滅的行動であったため、予想されたようにイスラエルの強力な反撃によって壊滅状態になっている。イランが後ろ盾になって創設されたレバノンのヒズボラというテロ組織は、かなり強力な武器を備えているとメディアは言っていたが、いざイスラエルと開戦してみると、あっけなく組織は崩壊し、ミサイルなどの武器も破壊された。国家ではないテロ組織としての弱点がもろに出たと言えよう。
ヒズボラの新たな指導者のカセムは早々と休戦をほのめかしており、そうしたことを観ると、イスラエルが戦勝したと言えるであろう。だが過激派としては原理主義を曲げるわけにもいかず、組織の存続を賭けて追い詰められていると思われる。そもそもヒズボラを過大視したメディアに大きな誤りがあったとしか言えない。ヒズボラが何十万発のミサイルやドローンを所有していたとしても、それはイランが背後にあったから可能であったのであり、いざイスラエルが攻撃を開始したら、そのミサイルなどはほとんど役立たずであることが分かった。さらに製造所や指令所が高性能なイスラエルのミサイルで破壊された。事実上イランからの補給は絶たれたに等しいだろう。イランはイスラエルと全面戦争になることを恐れている。イランは貧者の兵器であるドローンを製造する能力はあっても、高度なミサイルを製造したり、イスラエルのミサイルを防御する高度な防空システムを持っていない。しかも空軍は極めて脆弱である。イスラエルは戦闘機による空爆や、高度なミサイルによってイランを屈服させることが出来る能力を持っている。イランはイスラム政権になってから、誇大妄想に憑りつかれ、いかにも大国に復権したかのような態度を取ってきた。その報いを受けていると言えるだろう。
ハマスも同様であった。パレスチナ民の支持を得たということで傲慢になり、長い時間を掛けて大量のミサイル・ドローンを備蓄し、一気にそれをイスラエルに向けた。後先を考えない一回だけの狼煙であった。そしてイスラエルの反撃でパレスチナ住民がどうなるかも考えなかった。逆に住民を人の盾にして、病院・学校などの公共施設の地下に陣取った。トンネル工事にはパレスチナ人が協力したことは明々白々であり、パレスチナ人は同罪である。報いを受けても当然であろうが、世界の民主派勢力は逆に、生命尊重主義から出てきた「人道」という概念(人道主義という原理主義)から、イスラエルに対して矛先を向けている。戦争に人道などあり得ないことは、米国による日本への核攻撃を見ただけで分かろうというものである。東京大空襲では何十万という人が焼け死んだ。広島・長崎でも同様な悲惨があった。そして勝利者となった米国は、幸いなことに過度な抑圧を日本に対して与えなかったため、日本人は米国と米国人、そして民主主義を素直に受け入れた。ただ憲法を押し付けたことだけは、今に残る後遺症である(22.3.22「米国はこの際、日本憲法押し付けを認めよ」・23.4.10「日本国憲法成立の経緯とその矛盾」)。
残虐さという点においては、イスラエルよりも米国の方が遥かに勝っている。昔は軍事と民間には区別があったにも拘わらず、米国は一般市民を犠牲にする大空襲と原爆投下を行ったからである。イスラエルは核を持っていても、まだパレスチナに対して核を使用してはいない。武力と民が一体化したガザに対し、無差別に攻撃しているのは止むを得ない措置である。太平洋戦争下の米国も同じ論理で原爆を使用した。そうした客観的なモノの観方を現代の民主派勢力は持つことが出来なくなっている。民主主義、あるいは感情主義という原理主義に囚われているからであろうとノムは考える。結局、イスラム過激派の原理主義も、米国やイスラエルの民主主義という名の原理主義も、残虐さや不条理と言った点ではそれほど違いは無いのではないかと思われる。そのどちらも、未来を見通せないという意味での蹉跌があり、結局は失敗するであろう。
この項をアップしたあと、国連が「人権」という欧米の原理主義を日本に押し付けてきたというニュースを見た。国連の一機関である人権委員会が、日本の皇室典範の規定は「男女平等」の原則に反しているとして、改訂を勧告してきたのである。これは国家の主権に対する挑戦であり、世界平和を目指しているはずの国連が国家の根幹部分に干渉したことを意味している。その国の伝統や文化、そして歴史など一切を考慮せず、人権という原理主義に基づく一方的な価値観を日本に押し付けてきたのである(21.7.15「西欧は人権外交を止め、人道外交に切り替えよ」)。本来ならば、国連はそうした価値観には干渉せず、各国の伝統や文化を受け入れるべきなのに、欧米流の人権主義を各国に押し付けようとしている(22.4.29「価値観の選択」)。さすがにノムもこのニュースには心底腹が立った。未来世界では、連邦憲章に違反しない限り、各国の伝統や文化、そして宗教や歴史を認める。特に過去のことについては不問とする。そうした寛容さが無くては、世界を統一することなどできるはずもないからである。だが現在の国連は、無意味な人権問題を取り上げて、世界の安定を崩している(20.9.24「国連が崩壊の兆し」・22.3.12「国連が無能な理由」)。
未来世界では、現代の虚言に満ちた民主主義を捨てて、現実主義に基づいた新たな真社会主義になるであろう(20.12.23「真社会主義」・21.6.2「現実主義」)。その世界では、個々の人々の自由よりも、社会や世界と言う大きな枠組みの安定を優先する。決して現代における専制主義や独裁主義ではないが、制御された社会という概念を優先するだろう(21.1.7「制御思想」)。そうした社会が到来すれば、今現在の世界の混乱ぶりを呆れて振り返るかもしれない。世界秩序が整ったときには、過去の時代を忌まわしいものとして退けるだろう。つまり現代の民主主義を含めて原理主義に立っていた時代を、最悪の時代であったと振り返るだろう。それは決して懐かしさを以て振り返るのとは違う。忌まわしいものとして思い出すのも嫌になるであろう。これから到来する第三次世界大戦を経験すれば、未来世界の誰もがそう思うに違いない(22.6.30「人類史から観た第三次世界大戦の必然性」)。
(6.21起案・10.29起筆・終筆・掲載24:00・10.30追記)