【時事評論2023】
自業自得
2023-12-06
このテーマは前から書きたかったものだが、機会を逸してきた。世界の人や組織の動きを見ていると、まさに「自業自得」と思えるものが沢山見られるからである。そしてそうなるのは、当初の計画や思いが不完全なものであり、欲望によるものであることが多いことが原因であると思われる。たとえば国家の指導者を選ぶ選挙において、自分の利益だけを考えて選択をすれば、そのツケが数年経って自分に返ってくる。大局を観る知力なり判断力が必要なことは言うまでもない。この言葉自体が、人間の業に対する警告のように思えてならない。以下では、これに該当すると思われる事例を見ながら、人がどうして失敗するのかを教訓を交えて見ていきたい。
人は最初は善意や真面目な思いによって事を始めるが、やっていくうちに予想しなかった事態が起こり、それに対処しようと焦ってもがくうちに、増々悪い方へと歩みを進めてしまい、ついには深みにはまって悪い結果をもたらしてしまうことがある。最初から悪意や不真面目な企みによって事を始める者も多い。そのような場合には、多くの場合不幸な末路を辿ることが多い。「自業自得」という言葉にはそうした否定的・警告的な意味合いが強いが、必ずしも否定的な意味合いだけでなく、肯定的な意味合いに使ってもよいようだ。もともと仏教用語で、「前世でした行為の善悪が、報いとして今現在返ってくること」を表しているからだ。だが本項で「因果応報」的な否定的意味合いでこれを考えていきたい。
織田信長がなぜ明智光秀に裏切られて本能寺で殺害されたのかについては諸説あるが、一般的には、信長が光秀に対して侮辱的な態度を取ったために、光秀の自尊心を傷つけたことが、忠義心を捨てさせた原因であると言われる。もしそうなら光秀が裏切ったのも納得できるし、光秀が最初から主君を討ち取って天下を取ろうとしていたとはどうしても思えない。問題は信長がこの事件の直前に光秀に対して取った行動が云々されており、信長がどうしてそのような行動を取ったのかに焦点が当てられている。人は誇りを傷つけられれば裏切りたくなるものであり、信長がそれを知らなかったとは思えない。天下取り目前になって、こうした軽率な行動を取ったことや、本能寺での警護が少なかったこと、光秀に出陣の用意をさせていたことなど、多くの点で信長の軽率さが指摘されている。言わばこれは起こるべくして起こった事件であり、信長はその原因の種を自ら蒔いたというべきであろう。
信長は才覚を持った人物であったが故に、幼少の頃から傲慢であったようだ。もしかしたら少年時代にはもう天下取りを考えていたのかもしれない。そして運が良いことに、多くの謀略や戦で勝利を収めた。それは成功体験として彼の傲慢さを高めたに違いない。そして最後の最後にその傲慢さが身を滅ぼした、とノムは考える。
似たような事例で、プーチンの傲慢さを挙げることができるだろう。プーチンは信長と違って貧しい中で育った。だが頭が良かったために、幼少時は悪童であったという(22.4.17「プーチンは如何にして皇帝に成り得たか?」)。この頃から権力志向が芽生えていたと思われる節がある。権力も中途半端なものではなく、トップにならないと自分の思うように組織を動かせないと考えていたようだ。それを目指して一生懸命真面目に階段を上っていった。だがその手法には多くの手練手管があったようだ。KGBで受けた訓練により、それは磨かれた。運よく政治の世界に引き込まれ、それからは一気に階段を上り詰めていった。立身出世のためにはどんな悪事にも手を出すようになり、謀略も使った。エリツィンの弱みを握り、自分を大統領に推挙させて、エリツィンを引退させた。プーチンの場合はまだ現在進行形の形であるが、やはり盟友と思っていたワグネルのプリゴジンに裏切られた(6.25「ロシアのプリゴジン反乱は1日で終わる」)。幸いなことにプリゴジンのモスクワ進軍を途中で諦めさせることに成功し、後で暗殺して抹殺した。プーチンがどのような末路を辿るのか、ノムはそうした視点で今後の推移を見守っている(22.9.30「世界はプーチンの思う通りに成功体験をさせてしまった」・1.21「プーチンの負け戦と核の恫喝」)。
人は多くの場合、自分の過ちに気づかないことが多い。囲碁ではこれを「失着」と呼んでいる。それまで形勢が良くても、失着によって一気に形勢を悪くする。それを挽回できる例は少なく、最終的には「投了」という形になりやすい。最近はNHKの囲碁対局でAIが用いられるようになり、その失着の場面ではAIの勝率予想が一気に下がることによって、素人でも失着であったかどうかが分かるようになった。AIが出てくるまでは、その一手が失着に相当するかどうかは分かりにくいものであった。解説者でさえ気が付かないことが多い。「これは失着ですね」と明確に述べる解説者が少なくなってきたことが気になる。そのため番組では「失着」という言葉自体がほとんど聞かれなくなった。多くの場合、失着を打った当事者自身が、直後に気が付いて頭を掻いたり首を振ったりすることが多い。囲碁はまだ単純なゲームであることから分かりやすいが、人生ゲームでは判断が誤りであったことに気づくのはかなり後になってからが多い。
世界を指導するトップの政治家らが、失政をすることはかなり多いと思われる。だがほとんどの政治家は引退後も、言い訳じみた回顧録を出すなどして、真摯に反省を示すことはほとんどない。世界の趨勢が個人の決定で決まるということはないからでもあろうが、もう少し、もし別な決定をしていたならば、より良い結果が得られたのではないか、という反省を示してくれたならば、人間というものにまだ希望が持てるのであるが、そうした反省がないということは、人間の持つ「業」を思わせ、ある意味で絶望的な思いが沸き起こってくる。
自業自得を防ぐ方法があるかと言えば、おそらくそのようなものは無いと思われる。人間は心がけ次第でより良い人生を選択することは可能だが、多くの場合、運命に翻弄される。真面目に一生懸命事に当たる、という姿勢さえ持っていれば、すべてが上手く行くというものでもない。だが人から後ろ指を指されないためにも、「自業自得だ」と言われないためにも、道理に沿った選択を積み重ねていくことが必要であろう。
(12.5起案・起筆・終筆・12.6掲載・12.11追記)