【時事評論2023】
善と悪(善悪論)
2023-11-11
これまでも「善悪論」についてはいくつかの項を設けている。だが善悪論という本質的な問題については書いてこなかった。それは善や悪という概念が人間界に限定されたものであり、自然界における普遍性というものがないからかもしれない(20.4.25「状況理論からマイナス経済成長の善悪を考える」・21.4.27「善悪の基準とその闘争」・21.4.28「善悪の視点の問題」・22.1.31「プレイゲームの善悪」・22.6.25「善悪の状況論」・22.10.18「快感・快楽の善悪論」・23.1.17「少子高齢化の善悪」)。だがノムは記事の中では多くの善悪論を述べてきたし、自分が生きる上でも、あるいは世界の有り様を考えるときにも、絶えず善悪のケジメをつけるようにしてきた。そこで改めて「善と悪」について考えてみることにした。
従前から繰り返し述べているように、自然界で起こる事象には基本的に善悪はないと考えるべきである。たとえロシアが核兵器を用いて、それを機に人類が滅びても、それは自然界という想像もつかない巨大な空間の中ではほんのささいな事象であり、宇宙にとっては痛くも痒くもない事柄である。また地球の生物界という極々限定された空間に起こる事象として考えた場合でも、過去に何度も絶滅の時代を通ってきたことから、再び新たな環境の下で新たな生物が生存競争を繰り返していくだけである。ノムはこうした思想を「運命論」という形でノム思想に取り入れている(20.9.7「ノム思想とは?」20.11.7「運命論」)。そのため、何が起きても心底驚くことはないし、泰然自若としていられるし、いつ死んでも良いという心構えで毎日を過ごしている。言ってみれば、夜寝る時に、明日が無くても別にどうということはないと考えるのである。
だが人間界で暮らすためには、社会の掟を守り、他者を重んじて生活すべきであると考えており、決して覇権を争ったり、他者を不幸に陥らせてはならないという道徳律を持っており、それが善悪の観念、あるいは本能的直観から出ていることも分かっている。どうして人間がそのような善悪観念を持つのかについては、多くの議論が必要であるが、基本的にはノムは不可知論に立っているので、人間の考えることは「絶対知≒神」からすれば愚かな議論に終わるであろうこともよく分かっている。だがそれでも人間は、議論を止めることはない。それが人間の持つ知的本能だからである。そこでノムも、愚かしいこととは思いつつも、以下に善悪論を述べてみたい。
人が「善」だとするものには以下のようなものがあるだろう。
1.社会貢献。
2.他者を喜ばすこと。
3.健康を維持し、他者に負担をかけないこと。
また逆に、人が「悪」とするものは以下のようなものであろう。
1.社会に害悪を与えること。
2.犯罪。
3.他者を貶めたり、辱めたりすること。
人間界では、人々が共通して「悪」と認識するものがあり、それを多くの場合は犯罪として法で規定している。だが法律という文言による方法では、悪と断定することの難しい境界領域的行為などを明確に裁くことはできず、ましてや「有罪/無罪」の両極端しか定義していない現代の法制度では、悪を全て裁くことはできなくなっている(20.8.12「未来の司法制度」)。ノムの云う「道理」で悪とされても、法律に適用条文がなければ、見過ごされてしまうことになる(20.11.27「法律主義から道理主義へ」)。こうした現代の司法制度の欠陥や矛盾から、多くの人が善悪が明確に裁かれないことに不満を抱いたり、ストレスを感じたりすることがある。特に国家が犯す悪については完全に見逃されており、それは国家に主権があるという規定になっていることから生じている(20.12.26「主権論」)。主権を持つことでどんな悪にも言い訳ができることになっている。ロシアや中国の悪行に対してメディアもこれを悪と断罪はしない。ただその主張を伝えるだけに留まっている。ハマスの残虐なテロ的武力侵攻をさえ、メディアはパレスチナ人の置かれている状況を考慮して、イスラエルを批判的に報道している。
こうした世にある悪に対して、人間は幼少時から判断能力を持つことが実験的に知られてきた。生後3ヵ月を経た乳児に人形劇を見せて、その反応を探る実験が行われた。犬や猫を模した人形に、「善玉・悪玉」を演じさせると、乳児は必ず善玉が好きだと指さす。おそらく大人でも同じような反応をするだろう。善を好む傾向は人間に共通な本能だと思われる。だが人間は大人になるにつれ、諸々の悪行体験をし、それが上手い結果に終わると成功体験をし、脳の報酬系に喜びや快感を与える(22.9.30「世界はプーチンの思う通りに成功体験をさせてしまった」・3.31「脳の報酬系での記憶」)。それが人間が悪の道に走る主要因であろうと思われる。
今度は自然界を見てみよう。もし人間がこの地球に居なかったと仮定した場合、そこいら中で生きるための生存競争が行われているだろう。それは実際に都会の中でも起きていることだが、人間はそのことにあまり気づかない。そして特定の動物なりに愛情を持ち、その動物が他の動物により殺されると不快感や嫌悪感が生じる。人間自身が行っている他の生物に対するホロコーストじみた行いが非難されることはない。たとえば鳥インフルエンザや豚コレラが流行ると、養鶏場や養豚場の何万という動物が一斉に殺処分される。だがこれらの動物がペットとして飼われていないことや、食用になっていることを踏まえて、自然界の論理である「弱肉強食」を建前としていることから、誰も非難しようとはしないのである。
この記事を書き始めた日にも、イルカが海水浴場に現れて、人に危害を加える可能性があるとして警戒態勢が取られたが、決してイルカを捕獲して屠殺しようとはしない。それはイルカに対して西欧人が特に異常な愛を示しているからである。もしイルカを殺したら、動物愛護団体が黙ってはいないだろう。こうした人間中心で独善的な価値観により、人は都合の良いことを善とし、都合の悪いことを悪とみなしているのである。そしてその善悪の判断は、国家により民族により異なる。インドでは象が人間に追われて生息領域が狭められ、餌を求めて市街地に乱入することが起きている。年間の死者は500人に達し、象の死亡も100件に達している。だが政府は積極的に象狩りをできないでいる。やはり他国の動物保護団体の監視が怖いのであろう。
人間界と自然界の間でも、「善か悪かという葛藤」がある。自然界には善悪という概念が存在しないことは冒頭でも述べたが、人間界からみると自然災害は悪とされ、「自然の脅威」という用語もしばしば使われる。だがさすがに自然を悪と考える思考は無いようだ。人間も自然界の中にあるかぎり、その宿命に従うしかないというのが実情だろう。それはノムの運命論とほぼ同じ考え方である。その自然を破壊しているのは人間であり、人間はその結果として自らの存在さえ危うくしているのに、決して改めようとはしない(20.11.23「地球温暖化と動物窒息死の問題」)。因果関係を認めないどころか、科学的予見さえ政治的に無視して、競争に明け暮れている(20.9.6「地球における人間の活動と競争」)。
ノムの視点からすれば、人間の奢った思いとその行動こそが悪であると思わざるを得ない。環境保全の立場からすれば、人間が最も好きであり、最も価値を置く入浴でさえ、地球を温暖化に導いている悪の所業の1つなのかもしれないのである。人間が常識だと考えていることの全てについて、考え直さなければならない時代に入っている。プラスチックを使うことは既に絶対必要になっているが、その使用に制限を設けなくてはならないと社会は考え始めている。飾りに使う
善と悪の判断基準をどこに置くかで善悪は決まる。
1.個人の価値観に置く:百家争鳴が起こる。
2.宗教・思想に置く:争いが絶えない。
3.法律に置く:法律で規定していない事象を裁けない。
4.国家に置く:独裁が始まり、戦争が起こっている。
5.地球保全に置く:人間の活動は制約される。
人間が他者のこと、子孫のことを想うことで、初めて5.の地球に目が向くだろう。そして自分が為すべきことも分かってくるであろう。人類がそこまで叡智を高めるには、今少し時間が必要なのであろうと思われるが、そうしている間に人類は滅びの運命に向かうことになる(21.4.8「ホモサピエンスからネオサピエンスへの進化」・22.6.30「人類史から観た第三次世界大戦の必然性」)。
(7.21起案・起筆・11.11終筆・掲載)