【時事評論2022】
藤原不比等の偉業
2022-02-17
藤原不比等(ふじわらのふひと:659-720年)は飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿であった。歴史に疎い筆者にとってあまり馴染のない人物であったが、2月11日にNHKが放送した「歴史秘話ヒストリア」の「日本誕生 知られざる物語 日本書記1300年」を見て、彼が日本書記の編纂者であると教えられた。だがそれはWikipediaの説明では全く触れられていない。筆者としてはどちらを信用していいのか分からなくなった。番組は2020年11月に初回放送されたもので、筆者はその再放送を見た。番組をリードするのは渡邊佐和子である。だが驚いたのは、不比等はこの大事業を成し遂げた(関わった)だけではなく、大宝律令の制定や平城宮遷都にも関わっていたということである。だがそれもWikipediaでは異なった説明となっている。たとえば大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らだと説明されている。ということは、NHKの番組は一人の主人公を立ててストーリーを捏造したプロパガンダ番組なのか、ということになる。多くの学者が出演していることから、まるきり嘘ではないのだろうが、多くの点で誤解を与える番組であった。本項は日本史の勉強のような内容になるが、記録としての意味で書き残しておきたい
神々によって創られたとされる日本という国は、未だにその神話を引きずっており、世界に類のない皇室を戴いている。その日本神話が生まれた出雲地方は、「邪馬台国考」でも書いたように、大和朝廷誕生に大きく関わっていることが知られている(1.4「邪馬台国考 」)。なぜ出雲が日本神話の舞台になり得たか、という理由がこの番組を見て良く分かった(気がする)。
日本書記は全30巻から成るが、最後の系図を除いてその全てが現存して伝わっている。Wikipediaによると日本書紀には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのかはわからない。だが8世紀末に完成した歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には舎人親王(とねりしんのう/天武天皇第三皇子:676-735)が天武天皇に奏上したと以下のように書かれている 。「以前から、一品(いっぽん:地位を指す)舎人親王、天武天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」とあることから、編者は舎人親王と考えるのが妥当のようであるが、番組では藤原の不比等が編纂したと説明しており、矛盾がある。また学者によっては天武天皇が川島皇子以下12人に史書編纂を命じた681年が端緒であるとしている。
日本書記の全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており、また特定の語意について訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所がある。日本という国家がまとめたものとしては最古の歴史書(勅撰正史)と言われる。だがその下敷きとなる書物は欣明朝では「帝紀」・「旧辞」などがあったとされ、推古朝では「天皇記」・「国記」などがあったとされる。712年の「古事記」は出雲神話が中心であるが、日本書記もそれらの影響を受けており、勅撰の正史ではあるが神話的要素が多く、歴史家の中にもその神話の真実性を疑う者が多かった。ただ日本書記の中で神話的なものは1・2巻だけであり、3巻以降は歴代の天皇について書かれている。だが天皇の年齢などには不自然な点も多く、また統一性に欠けるところから編者が複数いたか交代した可能性があるという。番組では最初は書記官(史:ふみひと)である渡来人によって編纂が進み、途中から和人によって編集されていったと解説している。
645年に「大化の改新」があり、大和王権最大の権力を誇った蘇我入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって暗殺された。古代最大のクーデターである。これにより天皇の権威が確立された。鎌足は後にその功績を称えられて、死の直前に天智天皇から藤原朝臣姓を与えられ、不比等がこれを継いだとされる。鎌足が外交の任を担っていたこともあり、不比等は唐の文化に倣って日本という国造りを進めたと思われる。専制的な中央集権国家には皇帝・法律・都・歴史書が必要と考え、皇帝として天皇を、法律として大宝律令、都として平城京、歴史書として日本書記を創ろうと志した(と番組では説明)ようである。彼がそのような考えを持ったのは不比等を養育した田辺史(ふひと)が百済系渡来人であったからだという。幼少の頃から唐の話を聞いていたことが、不比等に唐を模範としようという考えが生まれた理由であろうという。
不比等は678年頃に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えたこともあって、彼の孫が後の聖武天皇(しょうむてんのう)となった。こうして藤原家は天皇家と深い繋がりを持つことになる。681年に22歳にして日本書記編纂に関わり、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)の制定にも関わった。律は刑法、令は行政法に当たる。710年には大和の国に平城京を遷都する事業に関わった。これは唐の都である長安を模している。だが皇居の鬼門に当たる場所に飛鳥時代からあった海龍王寺があったため、不比等はその位置を変えずに碁盤の目に作った道を曲げたという。それは天皇家の安寧を守るためであったとされる。そして22歳になってから歴史書として日本書記を編纂する事業に関わった。だがこれは40年に及ぶ大事業となった。唐の国史に倣って漢文を採用したが漢文を書ける人物が居なかったため、当初は渡来人である中国人を起用したようだ。だが事業は日本人の学者に引き継がれたようである。編纂過程で「倭」→「日本」、「大王」→「天皇」の書き換えがあったとされる。720年に日本書記が完成した。全30卷、総文字数21万5千であるという。そしてその3ヵ月後に不比等は享年63で死去した。見事というしかない死に方である。
奈良にある春日大社は不比等がタケミカヅチノミコト(武甕槌命)を祀ったとされ、白鹿に乗った形で描かれた掛け軸が遺されている。この神は大国主に国譲りを迫った神である。この神を祀ることで不比等は都の未来を託したと謂われる。春日大社は今でも一日も欠かさず、年間2200回も国の繁栄を祈っているという。現在宮司を務める花山院弘匡(かさんのいんひろただ)は不比等の子孫である。1300年の系譜を持つ人が今でも国家のために祈っているという国は世界広しといえども日本しかない。
日本書記の編纂が始まったのは飛鳥時代の681年とされる。そして日本書記が完成したのは奈良時代の720年であり、40年の月日を掛けた大事業であった。だが不思議なことに、番組では712年に太安万侶(おおのやすまろ:不明-723年)が編纂して元明天皇に献上したとされる「古事記」について全く触れていない。日本の歴史書としては、正史ではないが古事記の方が先んじて書かれたものであり、番組がそれと日本書記の関係を述べなかったのは大きな落ち度であった。いくら時間の制約があるとはいえ、歴史的に重要なものについて省略したのでは、観た人に大きな誤解を与えることになる。
ここで日本神話の舞台となった出雲についていくつかの発見を書いておきたい。出雲には斐伊川という大河がある。この川の上流にスサノオ(須佐之男命)が天から降り立って国造りが始まったと日本書記は書いている。そこには須佐神社が今もあり、神官(禰宜:ねぎ)を務めるのは須佐姓の須佐建央(たてお)である。父親が宮司でスサノオから数えて78代目だという。スサノオが退治したと言われるヤマタノオロチの骨と称するものが伝わっている。首の頸椎ではないかと言うが、生物学的鑑定はされていないようだ。スサノオは「木の神」としても祀られ、境内には杉の神木がある。髭から杉、胸毛から檜(ひのき)、尻毛から槙(まき)、眉毛から楠(くす)が生まれたとする。不思議にめでたい木として知られる松はこの中に入っていない。
出雲大社にはスサノオの息子のオオクニヌシノカミ(大国主命)が祀られている。オオクニヌシノカミは農業や医術を伝えたとされる。それからすると、この神は渡来人だった可能性がある。上記した須佐建央も一重の瞼で切れ目であり、中国系や朝鮮系を思わせる(失礼を覚悟の上での感想)。大国主が造った国を見た天上の国・高天原(たかまがはら)の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ:女神)がこの国を欲しいと思い、使いの神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を地上に送ったと書かれている。使者の神はオオクニヌシノカミに「この国を譲れ」と迫り、オオクニヌシノカミはこれを受け入れたとされる。この逸話は「国譲り」の物語として知られる。争い無くして平和裏に国がアマテラスオオミカミの子孫に引き継がれたというのである。如何にも日本らしい伝説である。面白いことに、神話にある国譲りの話し合いが行われた場所とされる屏風岩が未だに住宅街の一角にある住宅の庭に残されている。まさに自然の岩そのものであり、平地に飛び出したかのように有る。伝承を大切に守る日本人の気風をみるようである。しかも地籍上、この岩は2つの家に跨っており、両家がこれを守ってきたという。
大国主は使者から交換にアメノヒスミノミヤ(天日隅宮)という宮を賜ったと日本書記には記されている。それは大きな建物として表現されているが、出雲に近い鳥取米子の角田遺跡から発掘された絵画土器に描かれている建物と思しき模様がそれではないかと考えられているそうだ。高い柱の上に社らしい屋根があり、斜めに長い梯子が描かれている。それと思しき遺構がなんと2000年になって出雲大社から発掘された。大社には「金輪御造営差図(かなわごぞうえさしず)」という巻物が遺されており、9ヵ所に3本の丸太が組み合わされた柱が立っている図面である。柱は「柱口一丈」(約3m)と書かれており、3本の柱をまとめた直径が3mほどであることが記されている。この図には階段の長さが「引橋長一町」(約109m)と書かれているのである。土器に描かれたものとよく一致する。だが現実離れしたものであると歴史学者は歯牙にも留めなかった。だが2000年になって、出雲大社境内の地中に巨大な3本柱の跡が見つかった。一部には木材が残っておりその外径は丁度3mであった。現在3ヵ所が発掘されており、残りの6カ所も建物の下にあると思われる。絵図から推定される本殿の高さは48mとされる。そこから100mの階段が長く伸びている構造と推定されている。日本書記に書かれた巨大な社は実在したということになる。
出雲弥生の森美術館には西谷(にしだに)3号墓から出土したガラスの勾玉が陳列されている。青く透き通ったもので他には無いものだという。当時は日本にはガラスを作る技術が無かったことから、大陸から持ってきたものと推定されている。だが勾玉自体が日本の独自のものであることから、ガラスの材料を持ってきて日本で製造した可能性もあるのではないだろうか。上記した土器には手漕ぎ舟も描かれており、これらの品々(鉄器・朱:赤顔料)は大陸や朝鮮を経て運ばれたことが傍証された。また当時の海面は低かったことから、出雲には大きな湾があった(現在の宍道湖:しんじこ・中海:
なかうみ、は繋がって外海に開いていた)とされ、ここが良港として交易などに用いられていたようである。対馬海流(対馬沖を北東に向かう海流)とリマン海流(カムチャッカ方面から朝鮮半島に南西に向かう海流)の2つの海流が大陸や朝鮮半島からの渡来を容易にしていた。朝鮮から船出すれば、目をつぶっていても島根に辿り着くということらしい。渡来人は北九州よりも出雲の方に来やすかったとも考えられる。そのため日本で最も早くから渡来文化・文明がここにもたらされた可能性が大きいという。荒神谷(こうじんだに)遺跡からは弥生時代の358本という大量の銅剣や16本の銅矛などが出土しており、当時として強大な力を持っていたことが知られている。日御碕(ひのみさき)神社の創建は紀元前539年といわれ、「日の本の昼を守る」伊勢神宮に対し、「日の本の夜を守れ」との勅命を受けた神社だそうだ。「〝夕日の祭り〟が行われていたが、その後、海底に没した」という伝承があり、1999年になって周辺の海を調査していたダイバー(岡本哲夫)が明らかに人工的な階段を発見し、続けて祭壇・参道・玉砂利を敷き詰めた洞窟・亀石などが水深30メートルまで点在するのを発見した。
だが渡来人がもたらした技術などを使って、大陸や朝鮮にはないとてつもなく大きい宮を造ったとすれば、そこには縄文人や弥生人という日本人の創造性を見ることができる。決して真似したというだけでなく、独自の文化がそこに生まれた。それはヤマト王権が生まれた時代でも同じことが見られ、大陸・朝鮮の墳墓とは異なる前方後円墳を新たに生み出した。出雲には四隅突出型墳丘墓(1~3世紀)があるが、この形式は出雲を中心に北陸地方に散在する。それだけ出雲の力が大きかったことを傍証している。だが3世紀半ばを境にぱったり途絶えた。それは日本書記の国譲りと関係しているらしい。替わりに前方後円墳が主流になった。島根県・琴浦町の狐塚古墳がその代表である。これはヤマト王権が出雲にも及んだということを表しているのだろう。前方後円墳はその大きさで権力の大きさが推しはかられる。宣下(せんか)天皇(467?ー539)陵は138mの大きさだが、豪族の物部氏の別所大塚古墳は125m、和ぎ氏の五ヶ庄二子塚古墳は112mで、大きさはさほど変わらない。当時は合議制であったと思われている。
非常に興味深いのは、大和王権が出雲を武力で制圧しということではなく、出雲が進んで大和王権に主権を譲ったという話になっていることである。逆にたどれば、国譲りが行われたのは3世紀半ば頃であったと言うことが分かる。この頃はまだ合議による争いの解決が倭国(和国と解釈したい)では主流だったのかもしれない。だが日本書記編纂が始まった7世紀後半以前に大化の改新(645-650)があり、一種のクーデターが起こって権力者であった蘇我一族を滅ぼす。日本の歴史にも血なまぐさいことはあったのである。日本書記にもある神武天皇による東征物語もその一つであった。だが筆者としては、縄文時代にはそのような権力闘争はほとんど無かったと思っており、渡来人が入ってきた弥生時代からそうした権力闘争が始まったと考える。そうした中で生まれたのが大和王権であり、さらにその中での権力闘争から大化の改新で天皇が最高の地位を占めるようになったと考えるべきなのだろう。歴史に疎い筆者がこのような偉そうなことを言うのも何だが、大筋では間違ってはいないと思っている。
最後に藤原不比等の評価をしてみたい。彼は間違いなく和人であったのだろう。そして中国の学者らを使って日本書記の編纂に貢献した。また大宝律令の編纂や平城京遷都にも貢献した。これらのことから彼は、日本という国家を形成する重要な立場にあったことを意味する。その意味で番組が彼を取り上げたことは良いことであった。また彼が若い時からその才を発揮したことは、聖徳太子と似ている(21.8.1「聖徳太子に見る日本の矜持と現代日本と中国の外交の失敗 」)。だが一言云わせてもらえば、彼が決めたわけではないだろうが、平城京を都にしたことは失敗だったようだ。それは大きな川が無く、交通に不便な土地であったことだったことにある。徳川家康の方が遥かに先見の明があると思われる(21.2.27「日本の江戸時代の統治と安定 」)。環境問題を中心に考えるノムとしては、平城京選択は必ずしも良かったとは思えない。盆地であることから廃水に悩まされた結果、不衛生であったと考えられているそうだ。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年に長岡京に遷都され、平城京跡地は往時の姿を維持することが出来ず、9世紀末に宇多上皇が南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされる。だがこの平城京選択が不比等の判断であったかどうかについてはつまびらかではない。番組は不比等の功績に挙げているが、海龍王寺を残したことだけにとどめておくべきだったのではないだろうか。だが現在の奈良は当時の碁盤目の区割りが多少崩れたとはいえ、街並みはやはりすがすがしいものがある。彼の功績として称えて上げたい気持ちにもなるのである。