本文へ移動
【時の言葉】外出を控え、資源消費を減らそう(2022.6.20)

【時事評論2022】

邪馬台国考

2022-01-04
  2021年12月27日にNHKが放送した「邪馬台国サミット2021」を観た。専門家の方々が論じ合う中で、どうも違和感が生じるのはやむを得ないことだった。なにしろ専門家らがそれぞれもっともらしい説を挙げて論証しようとしているのだが、両者とも0か100かという法律における有罪・無罪の二者択一のような論議をしているからである(21.6.13「確率論 」)。どうして中間的なものの見方ができないのかと考えた。そのような疑問の中から筆者独特な視点が出てきた。以下ではその考え方を披露したい。

  最初に「邪馬台国」について概説しておこう。この部族的な小国が日本の歴史の初期に存在したことは、日本に文字が無かったために遺跡の遺物でしか分かっておらず、その名称も不明である。だが中国の『三国志』(280年頃) の中の『魏志倭人伝』の中で触れていることから、その名称論議は差し置いて、日本の何処にあったのかが長年の論争を生み出してきた。魏志倭人伝では著者(または撰者)の西晋の陳寿が文書や伝聞から知り得た経路を詳しく書いているが、彼は実際に邪馬台国に行ったわけではなく、その記述に統一性がない。その書かれた方向と距離をそのまま信じると、邪馬台国は九州から遥か南の海上になってしまい、矛盾があるという。このことにより300年前に荒井白石が議論を起こしたという。白石は奈良の大和(やまと)と福岡にある山門(やまと)と邪馬台国(やまとこく)の字句の類似性から、2つのやまとこくのあった場所の候補を上げた。白石自身は邪馬台国の位置を奈良の大和国と主張している。現代に続く「北九州説」と「近畿(畿内)説であり、以後の学者もそれぞれに尤もらしい根拠を述べている。1960年代の松本清張や宮崎康平による邪馬台国ブームもあって、邪馬台国の所在地については全国100を超える候補地が唱えられ、ジャワ・エジプトにまで広がった。

  だが1937年に奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡が広く紹介されたことで、近畿説が有利になった。この遺跡はその後の調査で、東西2キロ・南北1.5キロに及ぶ広大なものであることが分かり、最古の前方後円墳がある箸墓古墳もあることから、やまと王権発祥の地とも考えられるという。2009年に巨大建物群の柱跡が発見され、畳144畳に及ぶ巨大な建物であったとされ、3世紀前半のものと推定されたことから、一躍脚光を浴びた。ひみこ(卑弥呼)は239年に魏に使者を送ったことが魏志倭人伝に書かれており、この建物の時代と重なる。柱の穴の形も〇ではなく□であり、他には見られない特徴であり、中国から渡った技師が作ったのかもしれない。東西に一直線上に配列された建物は宮殿を思わせる。発見当時も「卑弥呼の館か!?」と報じられた。ここからは九州から関東までの全国的レベルの土器も発見されており、中央集権的なものがあった可能性も示している。女王とされるひみこは約30の国々が「共立」したと魏志倭人伝に書かれているが、土器がその証拠になる可能性が大きい。さらに纏向遺跡からは未成熟の桃の種が多数(2800個)見つかっている。桃は中国では破邪に用いられたという記録がある。不老長寿の薬とも考えられていた。これは呪術に用いられたと考えられ、ひみこが祭司(巫女:シャーマン)であったと魏志倭人伝にも書かれている(「鬼道」の記述)ことから、ひみこが纏向で活躍した女王である可能性は高い。だがまだ纏向の発掘調査は全体の3%程度だと言われ、これからどのような発見があるか期待は高まっている。

  国学院大学の柳田康雄は邪馬台国を「やまと」と読む。纏向学研究センター長の寺沢董(かおる)は邪馬台国の中の倭国の王都が纏向であると考える。この場合倭国は広い概念であり、邪馬台国は狭い領域と考えている。纏向は倭国全体の王都であるとする。前方後円墳がここから始まっているということは「やまと王権」が近畿の纏向に立てられたことを意味するという。

  一方、北九州説を採る国際日本文化研究センターの倉本一宏は、日本書紀(720年)に卑弥呼に関する記述がないことに疑義を唱える。卑弥呼が北九州にあった邪馬台国の最初の王であったなら、日本書紀で卑弥呼を無視した理由も分かるというのである。小郡市埋蔵文化調査センター長の片岡宏二は魏志倭人伝にある「倭国が乱れ/共立して一女子を王とした/名を卑弥呼と言う」という記述に重点を置く。九州の佐賀県にある吉野ケ里遺跡は魏志倭人伝の描写とよく一致している。「楼観・城柵・兵を持ちて守衛」という言葉や、環濠があることなどである。倭国大乱はここ北部九州の豪族の間で起こったことなのかもしれないという。大規模遺跡が北部九州に集中していることが重要だと考えているようだ。1990年に発見された平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)では竪穴式住居の他に、身分の高い人が住んだとされる掘っ立て柱住居もあったが、何重にも環濠が巡らされている。このような大規模遺跡の存在が30ヵ所にも及ぶという。これらの集落が邪馬台国という連合体を形作っていたと考えている。それらを見渡せる位置に三船山遺跡というものがある。住居は数軒だけであり、生活感のない集落であり、展望のための見張り集落であると考えられている。山門遺跡群を一望できる位置にあるのである。このような集落は北部九州を囲むような位置に点在しているという。

  近畿説を取る大阪大学大学院の福永伸哉は、魏志倭人伝では邪馬台国の戸数を7万と言っていることから、人口は30万人くらいであったろうと推定し、九州の集落の規模では小さすぎると観る。一方、関西外語大の佐古和枝は、魏志倭人伝にある「倭人は鉄の鏃を使っている」という記述から同時代の遺跡で見つかる鉄器に注目し、福岡県で1746点・熊本県で1891点・大阪府で153点・奈良県が13点であることを挙げ、記述は北部九州の状況を表していると主張する。だが福永は、やはり遺跡から出土した銅鐸を根拠に近畿に大きな政権ができたと考える。銅鐸は弥生時代後期に近畿を中心に広がっていた文化であり、その使用目的は豊作を祈る祭事に使われたと考えられているが、その大きさは時代を経るに従って大型化し、鳴らす目的から権力の象徴となっていったようである。奈良盆地中央にある唐古・鍵遺跡は弥生後期最大の遺跡であるが、大規模な環濠で囲まれた最大級のものであり、巨大銅鐸の鋳型が出土しているのが特徴である。これを周辺豪族に配っていた可能性があり、分布は伊豆から四国東に及ぶ。このことから福永は、卑弥呼は畿内を中心とする政治連合から出てきたと考える。

  魏志倭人伝では、247年頃と推定される卑弥呼の死後に男の王が立てられたことで国内が戦乱となり、台与(とよ)という女の王に代わって安定したと記されている。筆者は素人でよく分からないが、台与の読み方で「台」を「と」と呼んでいることからすると、邪馬台国を「やまとこく」と呼べることになり、それが後の大和国に転じていったと考えてもおかしくない気がする。上記柳田の考えと同じである。

  説の中には、卑弥呼は邪馬台国の女王ではないという考え方もあり、議論はさらに混迷していく。そもそも魏志倭人伝をどの程度信用できるのか、という疑問もここから生じる。早稲田大学の渡邉義浩は、当時の三国(魏・蜀・呉)の覇権争いと著者陳寿の思惑が背景にあり、記述に偏向が見られるという。陳がわざわざ三国志に倭国のことを書いたのには理由があり、使者を送ってきた卑弥呼の存在を魏にとって有利にするために、情報操作を行った可能性があるという。唐の時代に書かれた『翰苑(かんえん)』(中国では失われ、日本の太宰府天満宮に遣唐使による写本が残っており、国宝となっている) を基に陳は倭国のことを書いたが、その位置をわざと南にずらして表現し、呉の背後の海上に魏と親交を結んでいる倭国がある、と脅したというのである。つまり魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置は全く当てにならないということになる。

  魏志倭人伝では倭人は顔と身体に入れ墨をしていると書いているが、縄文人は顔に入れ墨をしていたという説もあることからある程度は信用できるが、これも想像による創作である可能性が高いという。すなわち当時陳が知り得た倭国についての情報が念頭にあったと考えられるのである。

  卑弥呼は邪馬台国の女王ではないという考え方をするのは佐古和枝であり、魏志倭人伝にはそうしたことは書かれていないと主張する。「邪馬台国女王」という文言と「卑弥呼」の間には914文字のズレがあるというのである。しかも「邪馬台国女王」、と言う表記と「倭国は・・」という国名の違いにも注意しなければならないだろう。ここで卑弥呼と台与の関係が浮かぶ。佐古は台与が邪馬台国の女王であり、卑弥呼は倭国の女王であると考える。教科書は間違っていると断言する。台与も266年に晋に使者を送ったことが日本書記に書かれている。6世紀に書かれた『随書倭国伝』には「倭人は里数で距離を計ることを知らず、日数で計る」と言う記述がある。魏志倭人伝に書かれている倭国への経路が、前半の帯方郡から不弥国までは「里」が使われたのは卑弥呼が勅使を派遣した時の記録を基にし、後半に「日」を使ったのは、それが倭人からの伝聞によるからだろうと推理する。そうだとすれば、魏志倭人伝の記述は卑弥呼の時代と台与の時代が混在して書かれていると推測することもできることになる。佐古は「卑弥呼は北部九州にいた王であり、邪馬台国は卑弥呼の次の時代にできたもので、奈良県ヤマトにあった」と考えている。彼女のこの新説は、上野武が2004年に出版した『女王卑弥呼の「都する所」』という本がヒントになっているという。

  この説に対し、片岡は「倭=北部九州」ならばあり得ることだとし、佐古も「卑弥呼は倭王」とした。福永は纏向の全盛期は3世紀の前半であり、台与が登場するのは250年代以降であることから、卑弥呼が纏向にいたと考えるのが自然だとした。つまり卑弥呼が邪馬台国および倭の王であったと考えているという。佐古はこれに反論し、魏志倭人伝に「女王国の東、海を渡ること千余里に、また国あり 皆倭の種なり」という記述があり、当時はまだ日本全体がまとまっておらず、倭国・邪馬台国等の国々があったと指摘した。佐古はこの「倭種」が卑弥呼と同時代の纏向遺跡だと言う。倉本はこれに対し、『旧唐書(くとうじょ)』に「日本国」と「倭国」は別の国だとする記述があると指摘。14世紀に中国で作られた「広輿図」には洋上に浮かぶ島の名が書かれており、「日本」と「倭奴」は別に書かれている倉本は、当時の日本は中国から見れば列島各地に王権があったと見られていたと考えている、という。

  ここで新たに伊都国遷都説というものが登場する。伊都国とは九州北部にあった大部族であり、これが近畿に移って纏向を造り、やまと(邪馬台国=大和国)になったというものである。纏向がある時忽然と姿を現したということがこの説の1つの根拠となっている。柳田は弥生時代後期に中国文化が定着し、最も進んでいたのが伊都国であったと考えている。福岡県糸島市の西に邪馬台国より以前から伊都国はあったという。魏志倭人伝にもその記述があり、周囲から恐れられたと書かれている。王がいたと書かれたのは邪馬台国と伊都国だけであった。漢時代の中国とも交流があったという。平原(ひらばる)遺跡には5代に亘る王の墓がある。その1つは装飾品が豊富なことから女王の墓であったとされる。青い透明なガラスビーズのネックレスもあり、高度な技術を持っていた。しかも銅鏡が40枚も発見されている。直径46cmの巨大な鏡もあった。太陽信仰があったとされ、墓は遺体の足が東に向くように作られており、纏向の建築群が東西に直線的に伸びているのと同じである。

  寺沢は北九州の伊都国や岡山の吉備国が新しい王権を作ったという「談合説を取る。元々畿内には大きな墳墓の風習は無かったが、何らかの理由で伊都国連合が纏向にやってきて、前方後円墳という吉備の様式を取り入れた新しい墳墓の様式を作り出し、全国にこれが広まったという。吉備の楯築(たてつき)墳丘墓(円墳から2方向に出っ張りが出ている)の影響が表れており、纏向の初期前方後円墳であるホケノ山古墳にそれが小さな「前方」として作られたとする。副葬品にも鏡と剣が平原遺跡とホケノ山で共通してみられる。寺沢はこれにより前方後円墳祭祀による新しい国家体制が形作られ、それは現代の皇室の三種の神器に伝わっていると考えられる。

  伊都国が畿内に遷都した理由として、3世紀に中国の漢王朝が崩壊したことが挙げられる。これにより後ろ盾を失った伊都は他の部族との争いに巻き込まれていったと想像される。魏志倭人伝の「倭国乱れる」との記述がそれを表しているのだろう。そこで伊都国連合は吉備国連合や出雲連合と談合して争いを避けるためか、或いは敗退してか畿内に向かい、大和連合と共和して纏向に王都を築いたとも考えられる。その時卑弥呼を共立したと考えられる。この地に大和政権が誕生したのは、地元の呼び名を尊重した結果かもしれない。今に続く皇室の伝統、神道の伝統に出雲が強く関わっているのは、この時の談合に出雲が加わったからであろう。またそれだけ多くの連合が集合できたことは、纏向という巨大都市が一気に造られたことによって証されると言えよう。

  寺沢は2世紀の倭国は古い倭国、3世紀の倭国は新しい倭国、と表現する。古い倭国の中心は伊都国であったが、新しい倭国は連合体であったろうという。佐古は新しい倭国の都は纏向であり、それは卑弥呼より後の時代に造られたとする。福永は畿内が中心に談合が進んだと解釈した。東京大学史料編纂所の本郷和人は平和的に談合できたとは思えないという。これは歴史の常識に従った当然の推理だが、寺沢考古学的遺物として争いの跡は見られないと証言し、本郷の常識は当たっていないと反論した。寺沢は談合があったとしか考えられないという。

  卑弥呼は239年に魏の皇帝に朝貢した際、銅鏡を100枚拝受した。だが現在までそれは同定できていない。それ以後を含め全国で銅鏡は6000枚も出土しているからである。すなわち中国の技術はすぐに日本に取り入れられて実用化したと言えるであろう。伊都国の平原遺跡には40枚の銅鏡が1号墓に納められており、そのうち5枚はひときわ大きな内行花文鏡だった。これは239年前後に魏で流行ったデザインである。国立歴史民俗博物館の上野祥史は、中国本土でもここまで大きな鏡は出土していないという。この銅鏡は邪馬台国九州説を強く後押ししている。一方1998年に奈良県の黒塚古墳から出土した画文帯神獣鏡(直径13.5cm)1枚と三角縁神獣鏡(直径22cm)33枚も、当時中国で流行ったデザインである。これらの一部に「景初三年」の年号が入ったものがあることから、魏から贈られたものと考えられる。だが一部であるということは、有難がって模造した可能性も否定できない。化学的成分分析が待たれるところである。事実近畿を中心に500枚も出土している。卑弥呼が鏡を複製し、各地の豪族に配った可能性は否定できない。2020年に大分・日田で出土した銅鏡が卑弥呼の鏡ではないかと話題になった。大きさ21.3cmの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡である。鉄道建設の際に石棺とともに出土したが、30年間行方不明だったという。だが2009年に三国志の曹操の墓が見つかり、この鏡と似たものが出土した。大きさは同じで、腐食が激しいが金の象嵌もある。王クラスの高位者に贈られるものであるという。

  九州説のレジェンドと言われる佐賀女子短期大学の高島忠平は、1989年に発見された吉野ヶ里遺跡の発掘に携わってきた。だが職務命令のような形で九州説にのめり込むことになったという。吉野ヶ里遺跡の発掘で1kmに及ぶ環濠が見つかったことで、九州にも大型遺跡があることが分かり、九州説が本格的に取り上げられるようになったという。埋め戻される予定だった跡地を公園にすることで、文化財保護の端緒ともなった。
  近畿説のレジェンドと言われる兵庫県立考古博物館館長の石野博信は考古学を志してから75年、土器研究を専門としながら纏向遺跡の発掘に携わってきた。石野は出雲・吉備・畿内が連携して邪馬台国を作っていったと考えている。特に畿内で吉備系土器が沢山発掘されているという。これは吉備の人が大量に畿内に移住してきたからかもしれないと考えた。また出雲を通して朝鮮系の土器も入ってきたとも考えた。そして河内・大和に作ったのが邪馬台国だと考えている。

  最後にパネラーの一人一人の感想が述べられた。特に福永が、倭人が争いを避けて墳墓作りに協力して平和を保ったことは、纏向遺跡には環濠や見張り塔が少なく、山城なども朝鮮に比べて少ないことに表れていると語ったのが印象的であった。また佐古は、国の始まりが女性であったことに感慨があると述べた。渡邉は天皇陵の調査が行われていないことは残念なので宮内庁にお願いしたいと要望した。

  番組での専門家の意見は以上に簡単にまとめたが、冒頭で述べた筆者の疑問は番組の最後の方で何人かの専門家が述べた見解によってかなり解けた。筆者の独自見解だと思っていたのと同じような見解が出されたからである。それでもまだなお筆者が主張したいことが残ったので、最後に筆者の見解を以下に箇条書きにしたい。なおこれはズブの素人の妄想であることを前置きしておく。

1.日本列島の縄文人には争いを好まない温和な性格があった。
2.縄文時代にも植物栽培は行われていたが小規模だった。
3.大陸や朝鮮半島から多くの外来人がやってきた稲作などを伝えたことで、食糧の貯蔵が始まり、同時に争い
  が生じた。
4.倭人と呼ばれるようになった弥生時代には、特に外来人との争いは少なかったと思われる。食糧を巡る争い
  は弥生時代の大陸・朝鮮半島からの大規模農耕の導入から始まる。
5.縄文・弥生の時代区分が農耕の始まりからであったとすると、それはかなり長い期間に亘るので境界は不明
  となる。
6.当時は倭人の間には文字が無かったとされ、大陸から徐々に「漢字」を学んだ。「邪馬台国・卑弥呼」
  という大陸の呼称には全て蔑称が入っており、日本はひらがな+(漢字)表記にすべきである。
7.だが食糧を巡る争いは集落から部族を生み、環濠集落へと変化していった。
  (21.12.2「攻めと守り 」)
8.集落が大きくなると部族としての権力構造が生じた。
9.多くの部族は自己組織化原理で集約されていき、中でも九州の部族は外来人が多いため戦闘的であった。
  (21.6.9「自己組織化と自己崩壊化 」)
10.出雲も同様に交易などで外来文化が入りやすかったが、不思議に国家伝承の地となった。それは出雲が
  纏向連合に加わり、後に大和政権で歴史を編纂する際に力を発揮したせいだろう。
11.魏志倭人伝の記述は確かに大陸の力関係の影響を受けており、伝聞に基づく部分が多いことから、あまり
  重要視する必要はない。
12.北九州では争いが激しく、伊都国は高度な文化を持っていたがゆえに、より理想的な地を求めて噂を頼り
  に畿内を目指したと思われる。その時争いを避けたいと思っていた部族を道すがら集め、談合して徐々に
  その規模を大きくしたと思われる。途中出雲・吉備などの部族が加わった。
13.畿内の纏向に辿り着いた一行はここを理想の地と定め、当地の大和国とさらに談合し、一気に都を
  造った。それが纏向遺跡であろう。筆者は柳田・寺沢の「伊都国遷都談合説」を採る
14.平和裏に談合という調整で民族統合と新国家を成立させた倭人はまさに「和人」であり、世界史で誇る
  べき偉業である。これは未来世界での統合を予感させる。
15.多くの部族をまとめるために力があるものを選ぶのではなく、祭祀的力の強かった巫女を選んだ。
  それが「ひみこ」であると思われる。彼女は頭脳も優れており、魏に使者を送った。
16.「ひみこ」が死んだあと、男王が就いたとされるが、その時国が乱れたというのは本当であろう。
  多分短期間で「とよ」に引き継がれたに違いない。
17.纏向時代以降に畿内にやまと王権が生じたことから、これが天皇家に続くことになったと思われる。
18.古事記に描かれている天照大神は女性であり、ひみこの伝承が神話となって位置付けられた
  と思われる。
19.魏志倭人伝に出てくる男王誕生による内乱は、古事記などでは須佐之男命(すさのおのみこと)として伝承
  されていると思われる。
20.現代人のDNA解析などから、縄文系は沖縄などに残存しているものの、多くは外来に置き換わっていると
  いう。特に畿内は縄文系は少なく、経緯からみても大陸系・朝鮮系が現在の皇室や日本人の中に入ってきて
  いると思われる。人種的な「純粋な日本人」という概念は払拭した方が良い。
  (21.11.5「縄文人の文化と現代への継承 」)
21.縄文時代から続く争いを好まない民族性は現代にまで続いている。それは外来人の性格を変えるほどに
  強烈であり、祭祀によって引き継がれてきた(皇室・神道・仏教・祭り)。
22.日本はアニミズムに基づく多霊・多神教であり、それが原因で調和文化が発展した(神仏習合)。
23.一神教は日本では根付かない。
24.『古事記』は神話であるが、『日本書記』は国史の形を取っている。古事記には「あまてらすおおみか
  み」の記述があるが、日本書記には無い(ようである)。日本書記は邪馬台国にまつわるひみこを消去した
  かった動機があったのかもしれない。それは邪馬台国がやまと政権に入らなかった可能性を示唆している。
  日本書記が書かれた720年には既に邪馬台国(Wikipediaでは2~3世紀に存在とある)という小国は消滅して
  いたからかもしれない。以後天皇家が男系になった理由もそこにあるのかもしれない。
25.「日本」という名称は2~3世紀頃に「倭」から「やまと」になったと言われる。『唐書(とうじょ)』
  (945年)の中で「倭」と「日本」は異なる国であったが併合したと記されているそうだ。天武天皇(673~
  686年)の時に正式に日本が国号とされたという。14世紀に中国で作られた「広輿図」にも「日本」の表記
  がある。現代では「ひのもと」と理解するのが最上であろう。
26.同様に「わじん=倭人」という呼称から、平和を尊ぶ「和人」という理解も重要である。「やまと」も
  「邪馬台」ではなく、「大和」と理解すべきである。中国語による漢字の命名を日本の認識にしてはなら
  ない。それは必ず卑語を含んでいるからである。

  以上、細かい事にはこだわりたくないので、不明な部分には触れないこととして、現在の大枠でのまとめをしてみた。番組では筆者が言及したことまでは論を拡張していないが、渡邉が述べた天皇陵調査や天皇家のDNA調査は行った方が良いと思う。ノム思想が科学主義に立っているからである。ただこれも、イデオロギー(民主主義・知る権利)からではなく、国民の60%超の合意を確認してから行うべきである。


TOPへ戻る