【時事評論2021】
縄文人の文化と現代への継承
2021-11-05
縄文人とは、日本の古代史における先住民族を総称したものであり、約1万6000年前から約3000年前まで現在の北海道から沖縄本島にかけて住み、縄文文化と呼ばれる文化形式を保持していたとされる。地域ごとの特色も見られるが、かなり広範囲に交流があったことがヒスイ製の勾玉や縄文土器が全国的に発見されることからも窺える。縄文時代後期には勾玉は朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。そして驚くべきことに勾玉には高度な加工技術が、縄文土器の中には高度な芸術性が表れていたこと、縄文時代には争いの形跡が見られないことであるという。1万年以上に亘って安定した高度な文化を築いた民族というものは歴史的にみてもそうあるものではないと思われる。かねてから縄文時代を高く評価してきたノムとしては、それらの理由がどこにあるのか知りたいと思ってきた。そして現代人にどのくらい縄文文化の残り香が見られるのかということにも興味がある。
縄文時代より以前の後期旧石器時代の日本列島にはナイフ型石器と細石刃という、同じ用途に用いられる2種類の石器が存在していた。ナイフ型石器は大陸では出土例が無いもので、日本列島で独自に発達したものと考えられ、細石刃はバイカル湖周辺に起源を持つもので、日本列島に伝播したのはおよそ2万年前、宗谷海峡経由で北海道にもたらされたとされている。細石刃が東北や北陸に伝わるのはおよそ1万5000年前である。つまり、この時期に北東アジア方面から細石刃の技術を持った少数の人々らが北方からも日本列島に移動してきたことになるという。縄文人に関連するウイルスとして、レトロウイルス ・HTLV-1がある。このウイルスは成人T細胞白血病を引き起こす原因として発見されたが、日本人にはこのウイルスキャリアが多数存在することは知られていた。だが東アジアの周辺諸国ではまったく見出されていない。自然感染の経路としては母児間の垂直感染と男女間の水平感染に限られており、特に夫から妻への感染が多く逆はほとんど観察されない。HTLVはかつて日本列島のみならず東アジア大陸部にも広く分布していたが、激しい淘汰が繰り返されて大陸部では消滅したようである。弥生時代になってウイルス非キャリアの大陸集団が日本列島中央部に多数移住してくると、列島中央部でウイルスが薄まっていったが、列島両端や僻地には縄文系のキャリア集団が色濃く残ったものと考えられる。
戦後には出土史料に基づく考古学が発展し、それまで弥生人に単純に置換された存在と見られていた縄文人を、弥生文化を主体的に受容して弥生人へと変化していった人々として捉え直す論調が生まれてきた。1970年代以降の研究により、縄文人は栗やイモを多く食べていたことが分かり、1万年の長きに亘って豊かな狩猟採集文化を維持したという点で、人類史上でも他に類例のない人々であったとの見方が登場した。さらに外海にも出ていたようであり、その行動範囲は極めて広かったようである。日本では先住民として北方のアイヌが知られているが、DNA解析によりアイヌ人は縄文人の遺伝子を特に色濃く残していることも判明している。2004年の頭蓋特性の再評価は、アイヌの人々が縄文人よりもオホーツクの人々に似ていることを示唆しているとも言われる。遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉(まがたま)が作られていたことが判明しており、その材料の原産地から縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしたと考えられている。後年には日本製の勾玉は朝鮮半島にも伝播している。残念ながら縄文人は文字を持たなかったため、言語については明らかではない。
戦後には出土史料に基づく考古学が発展し、それまで弥生人に単純に置換された存在と見られていた縄文人を、弥生文化を主体的に受容して弥生人へと変化していった人々として捉え直す論調が生まれてきた。1970年代以降の研究により、縄文人は栗やイモを多く食べていたことが分かり、1万年の長きに亘って豊かな狩猟採集文化を維持したという点で、人類史上でも他に類例のない人々であったとの見方が登場した。さらに外海にも出ていたようであり、その行動範囲は極めて広かったようである。日本では先住民として北方のアイヌが知られているが、DNA解析によりアイヌ人は縄文人の遺伝子を特に色濃く残していることも判明している。2004年の頭蓋特性の再評価は、アイヌの人々が縄文人よりもオホーツクの人々に似ていることを示唆しているとも言われる。遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉(まがたま)が作られていたことが判明しており、その材料の原産地から縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしたと考えられている。後年には日本製の勾玉は朝鮮半島にも伝播している。残念ながら縄文人は文字を持たなかったため、言語については明らかではない。
縄文文化の高度性を示すものとして火焔型土器と王冠型土器がある。両方とも4つの取手部分を持つという点では同じであるが。王冠型は比較的シンプルな装飾に留まっており、同じ遺跡の中でも同時に発見されることがあるため、使用目的が異なっていたことを想起させる。火焔型土器は実用には適さない形状をしているが、おこげが付着していたという事例もあることから、一部は実用に用いられた可能性もある。だがわざわざ実用にこれほど複雑で使いにくい形状のものを作るということは想像しにくい。常識的には祭礼に用いられたと考えるのが普通であろうが、未だに解明されていない。祭礼は埋葬に伴っても行われたと見られるが、縄文遺跡で墓らしいものは秋田県鹿角市の大湯環状列石(縄文時代後期前半:約4500年前~4000年前)などにしか確認されていない。縄文中期の2000年前頃から祭祀場の登場が見られ、晩期には住居と祭祀場の分離が見られるという。火焔土器の出土も縄文中期と見られることから火焔土器が祭礼で用いられた可能性は高いと思われる。煮炊きの跡があるとされるが、祭礼の中で実際に煮炊きされた可能性は否定できない。
筆者の想像であるが、縄文時代が極めて平和な集落であったということは、そこに高度な文化が発達する余地があった(江戸時代も同様)ということであり、階級制のようなものは無かったのかもしれない。縄文人は土地や収穫物を巡って争う必要が無かったとも考えられる。彼らは争いをせずに自由に大地や海を移動できたと思われる。それは日本という温帯で降雨の多い土地では、動物も植物も豊富であったからであろう。だが最初からそうした理想郷があったわけでもないらしい。縄文時代に特に東北などに多かったのはブナ・ミズナラであったが、およそ7000年前頃から縄文遺跡周辺ではクリが増えており、特に6000年前頃には入れ替わりが始まっている。5500年前には圧倒的にクリに置き換わっているという。それは人為的に食料となる樹木を増やしたことが想定される。そうした理想郷では、時間を持て余して遊び心が芽生えたと思われる。粘土細工を高度な芸術品にしたのは、決して上位にある高官に献上するためではなく、他の人々と共有して楽しむためであったろう。お互いに作品を自慢し合った光景すら想い浮かぶ。
あとから知ったことであるが、縄文時代の日本独自のヒスイの勾玉は、縄文初期から作られたが、その原石産地は糸魚川流域であった。だが面白いことにそこには未完成品などしか発掘されていないそうだ。完成品は全国に見られることから、貴重品として他の物と交換されたと考えるのが常識であろうが、糸魚川にはそうしたものが見当たらない。勾玉を製作した集落として長者ヶ原遺跡が有名だが、そこにも無い。ということは、縄文人は気前よく、友好親善のために他所の人に上げたか、偉い人に献呈したことが考えられる。見返りは無かったと考えられるのである。ヒスイに小さな穴を開けて装飾品にしたという技術は相当高度で熟練と時間を要するものであったに違いない。長者ヶ原遺跡周辺には豊かな海産物や山の幸が豊富にあり、食物を求める必要は無かったと考えられている。苦労して作ったものを他者に上げるという行為は、正に縄文人の心の豊かさを表すものであると考えられているそうだ。そしてその勾玉が、日本の皇室の三種の神器の1つとなっているということは、縄文人の心を皇室は持っていた、そしてそれを伝承したかったのだろうと考えられるのである。他の2つ、剣と鏡は異国から伝えられたものであるが、勾玉は糸魚川周辺にしか無く、正に日本の最初の工芸品であったのである。
争いのない縄文時代が本当にあったとすれば、それが現代の日本人にも受け継がれているのではないかと考えたくもなる。日経サイエンスの8月号に、「ヤポネシア」と題して日本人の起源を探る特集があった。それによると、本州の人々は1~2割、沖縄の人々は3割、北海道のアイヌの人々は7割の割合で縄文人ゲノムを受け継いでいるという。ヤポネシアという言葉は作家の島尾敏雄が作ったものであるが、ラテン語で日本を意味する「ヤポニア」に島々を意味する「ネシア」を合わせたものだという。おもしろいことに日本人のDNA解析はヤフーの社員が東京大学の大橋順に持ち掛けたという。ヤフーでは当時遺伝子検査サービス事業を手掛けており、遺伝子検査で集まった1万人を超える全国47都道府県のゲノム情報を持っていた。匿名化した1万1000人のデータを解析すれば、日本人と縄文人との繋がりを確かめることができるかもしれないとヤフーの事業責任者の井上昌洋は考えたのだ。解析の結果、縄文人に最も近いのは沖縄県人であることが分かった。九州各地の人々はそれより低いが他の県よりは縄文人に近い。近畿地方の大坂・京都・奈良などは関連性が低く、むしろ渡来人に近い。恐らく大陸や朝鮮半島からの渡来人のゲノムが優勢なのであろう。関東の人間はほぼ両者の中間にあると考えられるらしい。男女にも差があり、男性のY染色体は7つの系統に分けられ、35%の男性は日本列島固有(韓国・中国にはない)の系統だった。これは縄文人由来と考えられている。そして解析の結果から、縄文人と渡来人の混血は平和的にゆっくり進んだと見られている。
DNAによる検証はまだまだ続くだろうが、ノムが感じるのは、日本人が独創的で情感豊かであるという特質、さらに言えば平和を好む温和な民族だということは、縄文時代からの伝統と人種的な2つの理由が作用しているだろうということである。豊臣秀吉という一代の英傑による海外派兵というものはあったが、それより以前には大和民族は朝鮮半島にすでに根拠を得ており、かの任那というところには日本独自の前方後円墳が見られるという。縄文時代から海を渡る技術を持っていたことが上記からも想像されるが、当時は国家という概念がまだ希薄だったのであろう。それにしても、秋田・鹿児島という中央から離れた地域に縄文人の血が強く残り、四国・近畿・能登などに渡来人の血が多く混ざっていること、関東は中間より少し渡来人に近いということなど、面白い結果が得られたことは非常に興味深い。
ノムとしては、日本人の温和な性格・気真面目さ・人と争うことを嫌う性格・他者に対して寛容、という良い面を現代にも継承してもらいたいと思うし、さらに日本人の独創性(ノーベル科学賞に顕著に表れている。2008年以降で見れば、アメリカに次いで2位である)が島国根性の中から生まれたものであるにせよ、それは古代から受け継がれてきたものであるとの自負も改めて現代の若い人達に認識してもらいたいものだと思った。2022年9月になって気付いたのであるが、この日本の誇る縄文遺跡群が世界遺産に登録されたことを書くのを忘れていた。正式には「北海道・北東北の縄文遺跡群」との呼称で登録され、2021年7月27日に認定された。1ヵ所の指定ではなく、遺跡は北海道・青森県・岩手県・秋田県の1道3県に点在している17ヵ所が登録された。全国約9万カ所に縄文遺跡が分布するが、遺跡は原則として埋め戻されるため、展示可能なものが地域として関連付けられた上で登録されたようだ。考古学者は埋め戻して保存を図りたがるが、市民としてはやはり想像ではあっても科学的根拠に基づいて復元されたものを見ることで、現代への継承が可能だと思うものである。
山梨県広州市には個人的に縄文時代を再現しようとしている人がいる。”縄文大工”を自称する雨宮国広さんだ。一年中裸足で過ごしているという。冷え性が一発で解消したというが、ノムと同じ考え方のようだ(21.5.31「ノムの健康法」)。オタク的とも言えるその徹底ぶりには驚かされるが、自宅の敷地に広さ三畳ほどの小屋を別に作り、家族とは別にここで寝泊まりをしている。そこで鹿肉を食べたり、豆を食べたり自炊している。仕事は全国からの縄文遺跡の復元現場での大工だという。道具も縄文時代に使われていた石斧を使うという。チェーンソーに憧れて23歳に大工になった青年は、宮大工になったが、鉄の道具にも違和感を覚えたという。石斧を使った時に、自分の思い通りにならない道具に意味を見出した。すなわち人間中心のモノづくりではない仕事に本来の職人の在り方を見出したのだという。2021年8月には推定樹齢300年、樹高46mの杉の大木から丸木舟を作ることに挑戦した。切り倒すのに18日間掛かり、丸木舟にするのに半年が掛かった。全国ツアー「じょうもんさんがやってきた」を主宰して子どもらに縄文時代を伝えている。杉への感謝の気持ちを子らに教えている。
縄文時代の遺産で現代、あるいは未来に引き継ぎたいと思うものには、①平和的精神・②安定した定住・③食料の自給・④土器葬がある。①については十分に説明してきたし、日本人が歴史的にその遺産を引き継いでいることも述べてきた。②については、未来世界の定住性・限られた場所での生活・海外移動や貿易の禁止などの政策を実行する上で参考にすべきだろう(2.26「民族大移動」・6.3「貿易論」)。③については、クリが参考になる。縄文時代の人は最初はドングリを保存食として食べていたと思われるが、これは渋があるため長期に亘って水に晒す必要があった。クリはその点その必要がなく、かつ甘く美味しい。保存に適していることは言うまでもない。またクリは材木として活用した場合、腐りにくいという。これに付け加えて、田園都市構想では、各家の敷地境界のフェンスなどにヤマイモを植えることを勧めている(21.2.9「田園都市構想」・6.24「ジオシティー(未来の地下都市)」)。これは必要な時に掘りだせば食料に成り得るし、また栄養価が高い健康食品であると、現代でも持て囃されている。飲み物にすることもできるそうだ(20.6.13「世界食糧危機は起こるか? その時日本は?」)。④の土器葬は縄文時代には子どもの遺体は土器に入れて葬ったことがヒントになったノムの独創的なアイデアであるが、人が死んだら粘土などで遺体を塗り固め、薄いフィルム(分解性プラスチック)を被せて土葬する。これで自然循環(物質循環)が可能になるだろう。DNAの事後検証も容易であろう。こうした縄文から学んだ定住と平和が、未来に継承されることを何よりも願うものである。(11.27・22.9.10追記)

