【時事評論2021】
組織的人間と非組織的人間
2021-10-23
一服していてふと、人間には組織的人間と非組織的人間がいるのではないか、と思いついた。自分が非組織的人間だと思ったからである。これまで自分が歩んできた道を振り返ってみると、組織からできるだけ抜けようとしてきた自分を発見する。その理由は組織の持つ矛盾に耐えられなかったからである。だが一方、組織内に留まろうという思いも十分にあった。それは自己矛盾かもしれないが、組織内に居ても比較的自由な「平(ヒラ)」でいることで、矛盾を回避してきたとも言える。そのことを他の人に当てはめてみて、やはり2種類の人間がいるのではないか、という確信が得られた。以下ではそのことについて、私見を述べてみたい。
組織というものは、その長の命令に従う一群を指す。長より下位の部下らは、基本的に長の命令に対して意見は言えても、長がそれを変えなければその命令に従う他はない。ここに自己意識や自己意志との衝突が起こる。筆者はある意味で非常に正義感が強い方であったので、上司や仲間との間に齟齬が生じた場合に、自ら退く方を選んだ。元々闘争心というものを欠けていたからである。だが不思議に学業に於いても教師と衝突したことはなく、仕事も教員一筋に転職もせずに30年余を同じ職場で過ごした。ただ校長から反体制派と見られたのか、左遷のような人事に遭ったことはある。だがそれを左遷だとは当時思わなかった。同僚が先に昇進をしたときには、自分の能力が彼に追いつかないことを自覚していたので当然の人事だと思ったし、とてつもなく遠い場所への転属を命じられたが、新幹線を使った片道3時間の通勤を甘んじて受け入れた。それもまた運命だと思ったからである。そしてその運命を受け入れたことで、幸運が続くことにもなった(20.11.7「運命論」)。
こうした順応性が、1つの組織に長く勤めることができた秘訣だとも思っているが、なぜ自分が昇進を目指さなかったのかということに、これまでほとんど疑問を抱いたこともない。多分それは、自分の生き方が組織には合わないことを自覚していたからであろう。そのため昇進に繋がるようなことは自分から拒否してきたようにも思う。以前から筆者は組織というものを毛嫌いしてきたし、特に役人的な生き方には反発を覚えていた。しばしば役人を批判するのもその癖があるからであろう。こうした役人的なことへの反発を実践してきた。たとえばある対外的な仕事を任されたとき、自分としては最高の仕事をしたと思うしその成果も出したが、3年やって上司に交代をお願いした。なぜかというと、1つの役割に長い事就いていると、どうしても人間的な怠慢が出てくると思うし、マンネリズムに陥ると思ったからである。役人が3年ほどで異動を命じられるというのも、その点で合点がいくことであるし、合理的であるのかもしれない。
また同様に、学生のクラブ活動の卓球部顧問を引き受けた時も、学生と一緒に練習するなどして一体化を図り、初の合宿をやるなどして大会で団体優勝を果たしたが、それを機に同僚に交代をお願いした。動機は上記と同じであり、マンネリ化を防ぐためであった。自分の欲や名誉よりもいつも大義を優先したと思っている。高校時代を振り返ると、英会話クラブ内で先輩後輩の間でもめ事が起こり、中間派であった私に部長の話が回ってきたが断って他の部活に移った。人のもめ事の仲裁はしたくないというのが正直なところであった。その転属したクラブでも部長の話が回ってきたが、それはもめ事は無かったので引き受けた。3年間と卒業後のOBとしての支援を含めて大いに活躍したと思っている。そしてこの化学部に入ったことが、一生の進路を決めることに繋がった。そうしたことを考えると、血液型ABということもあってか、社交的な面と孤独癖の面の両方を持っており、決して組織には馴染めなかったが、それから遠ざかるということも無理にはしなかった。今でも高校・大学などには会費を支払っているという義理堅さも持ち合わせている。
改めて役人のことを取り上げよう。筆者は収用の件で市役所と度重なる交渉をしてきたが、とても市役所の方々は親切・丁寧に対応してくれた。税務署の疑い深い執拗な追及には、正論をかざして撃退した。収用の件でその矛盾を問うため、霞が関の国土庁を所用のついでに尋ね、若きエリート高級官僚と立ち話ではあるが議論もした。最後に彼が言ったのは、「議論させていただきます」だった。その10分ほどのやり取りの間に、地方議員などが入れ替わり立ち代わり腰を低くして陳情に訪れていたことは印象深いことだった。国家の仕事をしている官僚に無駄話をしたとは思わないが、貴重な時間を割いてもらったのは今振り返れば申し訳ないことだったのかもしれない。現在は消防署によく行くが、ここでも役人的な対応ではあるが実に誠実に仕事をしているのに感心させられる。だが新人が担当したときには、規則一転張りの要求に、これまでの慣例的な対応を修正せざるを得なくなった。だが新人の顔を立てるためにそれに目くじらを立てることはしない。彼らは彼らなりに精一杯の仕事をしていることを知っているからである。だが女の交通取り締まり官の融通の利かない態度には呆れることもあるし、高級官僚の保身的な態度には憤りを覚えることもある。彼ら役人は決まりきったやり方を変えようとはせず、道理というものを無視して法律に従おうとする。いわゆる組織的人間の典型なのである(20.12.21「「組織格」を考える」)。
未来世界では役人的な人間は能力が欠けていると見られることだろう。なぜならば、未来世界は道理主義に立つからであり、法律はあるがそれを道理で解釈できる人間が尊敬されるからである(20.11.27「権威主義・権利主義からの脱却・法律主義から道理主義へ」)。すなわち人格点が高くなる。法律条文を盾に道理を外した決定や行為を行う役人は、判断能力に欠けるとして評価が低くなるだろう。道理に合うという措置は決して不正を意味しない。融通性があるということを意味する。法律を道理的に解釈して善政を行えば、現代の’大岡越前’と呼ばれるであろう。そのような判断は時に役人の立場を危うくすることもあるかもしれない。だが未来世界では世論がそうした善人的判断を支持するだろう。そういう雰囲気の中では、上司は法律に従わなかったという理由で部下を左遷したり冷遇したりすれば、その上司が今度は非難の的になる。
組織的人間が決して悪いという訳ではないが、組織の論理を民の益より上にすること自体が「悪」なのである。つまりこれは大義の問題と直結してくる(8.21「「大義」論 」)。非組織的人間というものは存在すべきではない。人間は全てどこかに所属しているのであり、その所属組織の決まりを守ることはその組織員としての義務である。だが自分の正義感がその決まりの適用を許さないと思ったときには、毅然として職を投げ打つ覚悟で民の益を優先しなければならない。それが武士道というものである(20.9.1「武士道精神とは何か?」)。日本人ならば、そうした気概を全ての国民が持つべきだと思うし、職人にはそうした一匹狼的な矜持を持つ人がいる。職人は、独立した存在(自営)であるならば、自分の納得のいくまで仕事をやり遂げようとする「職人気質」を持つ人が多い。それは結果として仕事の依頼者の信頼を得ることに繋がり、ウィン・ウィン関係が生まれる。そのような職人を私は好きであり、役人もそうあってほしいと願うのは無理な注文であろうか?