【時事評論2020】
人間の死生観と死の哲学
2020-04-27
人間はかつては運命に翻弄されるままに死を受容せざるを得なかった。そしてそれは人間としてほぼ正しい生き方であったと評価される。現代はそれとは真逆になり、人は「死」を忌むべきものとして生命の無意味な延長に全精力を上げて取り組んでいる。だがそれは「自然の摂理」に反することであり、無意味な寿命伸長は世界を人で溢れさせた。それは人間による自然破壊を前提にして成り立つものであり、人間の傲慢が「生命尊重主義」という科学的根拠のないイデオロギーを生み出した。
人間が生物の基本的摂理である、誕生・成長・貢献・死、という運命を受け入れていれば、「生の哲学」とともに「死の哲学」にも真剣に取り組まなければならない。人間は適切な時に死ぬべきであるというのがノムの考え方であり、それは自然主義に則った考え方である。だが現代の医療はその適切な死ぬべき時というものの考え方を混乱させてきた。薬物治療から手術治療、そしてワクチン療法や遺伝子治療まで登場し、臓器を交換することで生きながらえる再生治療というものまで現実化しているからである。
このまま無制限に医療が発展すれば、人はそのうちクローンによるDNA保存法を認めるようになるだろう。そしてそれを実現できるかどうかは貧富の差で決まることにもなるだろう。それは人の選択の自由を唱える自由主義に反することになり、二律背反を招く。すなわち医療の高度発展は生と死の選択の自由との間に矛盾をもたらす。現在でも日本では1回1億円もする特効薬が保険で使えるようにしようとしている。それだけのカネがあれば世界の貧しい人の病気や貧困をどれだけ救えるかということは議論の対象にもなっていない。
コロナ禍の最中にも人工呼吸器が足りなくなり、治療優先順序の選択(トリアージ)が問題となった。人間の生き死にが薬物や装置に依存するようになってこの問題は避けられなくなってきた。一刻も早く死の哲学を明確にし、無用な治療・延命措置は避けるべきである。ノムはこれを自ら避けるために「尊厳死協会」に入っているが、「安楽死協会」が出来て法的に認められるようになれば、真っ先に入会するだろう。安楽死は人間の最後に残された自由意志の発露であり、自分の人生が思うようにいかなかった人にも与えられる平等で自由な選択であると考える(11.8「安楽死をどう考えるか(11.9完)」参照)。
わずかな生存者を除いてほとんどの乗員が亡くなった悲劇のタイタニック号事件では、卑劣な方法で生き残った人もいれば、自らを犠牲にして人命救助に当たった人もいた。まさに人生であり、運命である。地球をタイタニックに例えて、地球に棲む人類を同じように考えれば、間もなくほとんどの人が死ぬ運命にある(11.7「運命論」)。生き残る人が居るかどうかも不明である。そのとき、最大のトリアージが生じるだろう。無意味な人命救助に全力を挙げるよりも、将来に備えて生かすべき人のトリアージを考えるべきであろう。
コロナ禍と同様、備え無しにそのときになって無意味なトリアージを施すことほど馬鹿げたことはない。現在は重症者を優先しているが、それは哲学を失った対処方法であり、有用性や科学性を著しく欠いた人道主義によるものであり、これから将来する地球異変による人類と動物の絶滅に備えるときに同じ轍を踏んではならない(003「地球温暖化による気候変動と動物大絶滅」参照)。
もう一度訴えたい。人は「死」を忌むべきではない。それは必然であり宿命である。あるいは死ななければならない運命にあると考えるべきである。それは「自然の摂理」に沿った考え方であり、自然に対して謙虚なものの考え方である。それを「死の哲学」として確立しなければならない。それが確立できた時に、人類は初めて高尚な生物・真に高等な生物・叡智を持った生物として記念されるだろう。